後のお楽しみ
「私と兄上は兄弟とはいえ、5歳くらいまでは特別な行事以外で殆ど顔を合わせる事は無かった。それは、通常王子の教育は国で選出された講師のみが担当するのだが、母は私に異常な執着を示し、自分の選んだ者以外に私の教育を任せようとしなかった為だ。つまり一緒に教育を受ける場へ、私は行かせて貰えなかったという事なのさ。その上母は兄上より私が劣っていると、容赦なく手を上げた。私はこの世界には誰も味方がいないと思い、よく中庭の繁みに隠れて泣いていたよ。泣いた事が母にバレると、更に殴られたからな」
「‥手を上げただと!?君は虐待を受けていたという事なのか?」
「そうだ。物を投げつけられたり、殴られたりなどという事は日常茶飯事で、酷い時は鞭も使われた。一度だけ入ったばかりの侍女が私を庇った事があったが、彼女は代わりに酷く殴られ数日後には姿を消した。それでおかしいと思い、他の侍女達に彼女の事を聞いたら、知らないという答しか返って来なかったよ。皆怯えた様子でね。そこで私は確信した。これは母が指示した事なのだと。可哀想な彼女は私を庇ったお陰で、人知れずどこかへやられたか消されたかしてしまったのだ。私を庇いだてした者は、皆等しく同じ目に遭うと母は知らしめたという訳さ」
エンリケは青ざめ、額に手を当て首を左右に振っている。
ジョアンはその様子を見て、フッと微かに自嘲した。
「君の反応は尤もだ。母はまともでは無いのだから。だから私は隠れて泣く事しか出来なかったのだよ。ところがある日、いつもの様に隠れて泣いていると、誰かが繁みを掻き分け私の隣に座ったのだ。驚いて顔を上げると、それはまともに口を聞いた事もない兄上で、黙って私の頭を撫でながら泣き止むまでずっと隣に座っていたよ。そして私が泣き止むと兄上はこう言った。"たまにお前がこの中へ入っていく姿を見て気になっていたのだよ。僕の考えが正しければ、お前が泣く理由を作ったのは王妃様なのかい?"と。私は何も言えず、ただ頷いた。すると兄上は"分かった。もう少しだけ我慢してくれるかい?僕が何とかしてみるから、それまで待っていて"と言って私を抱きしめてくれた。私は初めて人の体温を身近に感じて、人とはこの様に暖かい物なのだと知ったのだ」
エンリケは額に当てた手を目頭に移動させ、込み上げて来る物をグッと抑えた。
ジョアンはそれを、見て見ぬ振りをして話を続ける。
「それからは私が隠れて繁みで泣いていると、必ず兄上がやって来て優しく頭を撫でてくれたよ。暫くすると陛下の命令で、私は兄上と一緒に勉強出来る様になった。そればかりか私の部屋は兄上の隣に移され、やっと母から離れる事が出来たのだよ。これは全て兄上が陛下に訴えてくれたお陰だ。私は産まれたての雛鳥の様に、四六時中兄上にくっついて、時には兄上のベッドへ潜り込んで一緒に眠ったりもした。兄上の前ではかなり甘えん坊な弟だったな。そんな私に兄上は嫌な顔一つせず、いつも優しく可愛がってくれたよ。兄上は私の憧れで、私の世界全てだった。しかし母は黙って言う事を聞く様な人では無い。時々兄上の目を盗んでは、私に虐待を繰り返していたのだ。私も兄上に害が及ぶのを恐れて黙っていたのだが、眠っている私の首の後ろに残る鞭の跡を見た兄上は、母のしている事に気付いてしまった。そして兄上は一人で母の元へ交渉に行った。弟に二度と手出しをしないと約束してくれ。その為なら自分はどの様な条件でも飲むとね。母はもちろんそれに応じた。兄上を消すチャンスを狙っていたのだから。母の出した条件は、暫くブラガンサ領の外れに用意した山荘で、好きな勉強をして来いという物だった。それに従った兄上は、誰にも言わずに姿を消した。後は君も知っての通り、兄上は失踪の末亡くなったとされてしまった」
「ブラガンサ領‥先触れの話では崖から落ちて記憶を無くしていたという事だったが、それだと君が娘を探していた理由にならない。これは他にもまだ何かあるのだろう?」
「察しがいいな、その通りだ。娘‥姫君が崖から落ちた兄上を助けたというのは本当で、その時怪我をしていた兄上に姫君は薬を渡したのだよ。その薬が必要だったから探していたのだ。何故なら兄上は毒に侵されていたから」
「毒だと!?」
「ああ、君も知っているミゲルが持っていたマンソンの毒だ。兄上は万が一の事を考えて、最も信頼の置ける従者を従えて山荘へ旅立った。ところがこの従者は母に脅されていてな‥家族を人質に取られていたのだ。薬湯だと言われて毒を飲まされた兄上は、一時的に仮死状態になって発見されたよ。埋葬する寸前に息を吹き返し、ポンバル家と陛下によって存在を隠され、兄上はずっと毒に苦しんで来たのだ。何故兄上が息を吹き返したのかは分からないが、可能性として思い当たるのが姫君から与えられた薬によるものだと、私と兄上は判断した。それが娘を探した理由だ」
「もしかして君がアントニオ博士の研究所を王宮内に作ったのは、エドゥアルド殿下の為なのか?そして以前から立ち入りを禁止していたエルナン翼に、君はエドゥアルド殿下を隠していた。違うか?」
「やはり君は察しがいい。察しがいい人選手権でもあれば、間違いなく優勝出来ただろうに。見込みの無いネーミングセンスなど諦めて」
「フン!あんな物余裕で優勝したわ!手応えのないつまらん大会だった」
「あったのか!いや、そんな事はどうでもいい。私は兄上とどうしても一緒にいたくて、無理矢理エルナン翼へ連れて来た。しかし今は後悔している。閉じ込めて窮屈な生活を強いて、兄上は全てを諦めた目で、無理に笑って私の心配ばかりしていた。そんな生活を何年もさせた私はエゴの塊だ。でも、私とは対照的に、姫君はどうやってか兄上と再会して、あっという間に兄上に希望を与えたのだから、運命とは皮肉な物だ。偶然にもミゲルから毒を手に入れ、解毒剤を作る事が出来た。後は私が退けばいい。やはり私には兄上が一番大切な人なのだから」
「君は自分の気持ちに嘘を吐くのか?私には分かっている。姫君は君にとっても初恋の人だろう?何も伝えず全て譲って、それで君は後悔しないのか?」
「後悔などしない!もう決めたのだから。いや、ずっとそう決めていたのだ」
フーッと一息溜息を吐くと、エンリケは諦めた様な顔をしてジョアンに言った。
「君は頑固で融通が利かないからな。それなら私も腹を括ろう。君に着いて行くだけだ」
「エンリケ、何を言うのだ!君は兄上の側近になるべき人なのだぞ!」
「私は側近の前に君の友人だ!あまり私を舐めるなよ。見込みのない事の方が、燃える質なのだからな!それに、君以外の誰が私のネーミングセンスにダメ出しが出来る?」
「エンリケ‥‥言っている事が滅茶苦茶だ!だけど私は‥‥君の言葉が嬉しいと思う‥」
「まあ、君は根暗だからな。なるようになると考えてみろ。そういえばまだネクランの説明を聞いていないが?」
「いや、今はもう時間切れだ。それは後のお楽しみにして、陛下を迎える準備をしよう!」
「何故だ!?そんな風に勿体ぶって言われたら気になって仕方がないではないか!!」
悲しげな顔のエンリケに、ジョアンはまた声を上げて笑った。
今迄数える程しか聞いた事の無い、ジョアンの貴重な笑い声。
やっと打ち解けてくれたのだな。
タイトルは‥打ち解けちゃったアッハッハにしよう!
エンリケは密かにメモを取り出し、赤丸を付けて書き込んだ。
読んで頂いてありがとうございます。