私とアンドロイドの閉じた楽園
子供なんて、本当に欲しい人だけが産めばいい。
結婚も、心から添い遂げたい人が見つかればすればいい。
例えば二十八年生きてろくな女性経験もなく、この先も誰かいい人に巡り合えるというビジョンがこれっぽっちも浮かばず、青いまま地面に落ちた果実のような幼稚な自我、そのコンプレックスを引きずったままスレていった私のような人間には関係のない話だ。
目の下にいつも黒いクマを作り、癖のついた細い髪を無造作に伸ばし、女性のように小柄で痩せ細った、私のような生気のない人間には関係のない話だ。
少子高齢化問題? それなら心配はいらない。
今私が歩いている病院の廊下を少し観察してみればいい。そこには人間と同じくらいの数のロボットやアンドロイド(人間の姿を模し高度な人工知能を備えた次世代ロボット)が行き交っている。彼らはここで働いている。働き手が減り、手のかかる高齢者や病人の比率が致命的な現代において、その数を補い、時に人間以上の働きをする電脳疑似生物である。
ロボット科学、特にアンドロイド開発の実現がもたらした恩恵をこのままダラダラと説明してもいいが、その利点の白眉はやはり医療・介護福祉の分野における活用に尽きる。
――それは同時に、結婚や出産の政治的・社会的な重要性が薄れたことを意味していた。
冒頭に私がああ述べたのはそういう背景あってのことである。
結婚の是非についての私見はひとまず置いておいて、貧しかったり、自身の心に何らかの問題とか過去の柵があって子供をちゃんと育ててあげられる自信がなかったり、ただパートナーと一緒にいられればそれでいいという場合、無理に子供を産む必要はないのだ。
もちろんその影響で人口減少にはさらに拍車がかかっているし、親や親戚からの圧力もあるかも知れない。税収だって減る。だが自分に子供がいなくても老後を憂う必要がなく、働き手が減ることで社会が停滞する恐れもなくなりつつあるのだ。
いい時代になったものだ。少なくとも私はそう思うのだ。
「ただいま」
どこにでもある一戸建ての我が家の扉を開ける。玄関で靴を脱いでいると、奥から一人の女性が現れた。
「おかえりなさい」
私を出迎えてくれた彼女の名前はココ。私の所有する家事アンドロイドだ。
フリーターの自分がなけなしの貯蓄を注ぎ込んで一年前に買った彼女は、安いモデル――とは言え中古でも車が一台買える――であるために背は百三十センチほどしかないが、その容姿は二十代の綺麗で落ち着きのある銀髪の女性で、その少し不釣り合いな体格と人形くさい造形を気にしなければ本物の人間と見分けがつかない。
どちらかと言うと、これは本当に若者の間でも意見が分かれるところなのだが、私個人としてはアンドロイドの不気味の谷(人間に近く見えるものに対する感情的拒否反応)をようやく越えたか越えないかの所にある嘘っぽくて無機質な雰囲気がたまらなく好きなのだ。
今ココが私に向かって微かに微笑みを投げた。これもプログラミングされた反応だが、この必要以上に感情がこもっていない透明感のある所作こそが、私の心に溜まった澱を溶かし、癒してくれた。
「お母さまの様子はどうでしたか?」
「うん、問題ない。最近は落ち着いているって、アンドロイドの記録にもあった」
「それはよかったですね。夕飯の用意をしますか?」
「ああ、そうしようか」
私が返事をすると、ココは狂いのない完璧な微笑みで応じた。
家事アンドロイドに料理を覚えさせるには、デフォルトで入っている基本的なメニュー以外は有料でダウンロードする必要がある。幸い私は料理が得意だったので、一緒に作りながらココに直接料理を教えるのが私のやり方だった。
玄関を上がり、キッチンへ移動する。今は私とココ以外誰も住んでいないので、無駄に広く感じられ、どこか虚しい。
ココが冷蔵庫から取り出した既に半月切りにしてある玉ねぎ、それを炒めるためにコンロに火を点けると、ココはちらとコンロの方に目を遣ってから言った。
「家庭でガスコンロを使う人は少ないそうですが、主は買い換えないのですか?」
変わったことを聞くのだな、と思いつつ、私は置いたフライパンに油を馴染ませながら答えた。
「うん、そっちの方が便利だし安全だとは思う。今はAI搭載のものも安く買えるし、キッチンスペースにも代用できるしね。でも、これでいいんだ」
「それは何故ですか?」
「詰まらない理由だよ。本物の火を使いたいんだ。青い炎を見ながら直感的に火力を調節して、かちゃかちゃと音を立てながらフライパンを振る。それが一番落ち着くし、楽しいんだよ」
そう言いながら玉ねぎを炒め、木べらで手早くかき回す。途中フライパンを振り、玉ねぎが宙を舞った瞬間だけ水と油が跳ねる音が止む。
「便利とか効率とか、そういうものだけで何かを選ぶっていうのがあまり好きじゃない。多少面倒でも、自分がいいと思ったもの、好きなものならいいんだ」
「でもアンドロイドは非常に合理的な存在で、私は本物の人間でもありません」
「なっ……」
かっと顔から火が出た。自分がどれほど大きなブーメランを放っていたかを思い知ったからだ。
上手いことを言うものだ。生身の人間が言えば意地悪な問答だが、ココは何の表情も作らずニンジンを切る手を止めてこちらを見ていた。
それはどこか、寂しそうにも見えて、ああ自分が側にいてあげなければと思い上がったものだ。
「僕は別に、人間の誰かと一緒にいることとアンドロイドと暮らすことを天秤にかけた訳じゃない。独りでいることとアンドロイドと暮らすことを天秤にかけたんだ」
そう言って自虐的に笑った。本当に卑屈で、情けない笑顔だった。
夕食後、私はパソコンを開き、好きな動画投稿者のゲーム実況動画を楽しんでいた。実況をしているのは、ソフトで作られた音声と、可愛らしいイラストの立ち絵を付けられた二次元の少女。投稿主の分身であり、偽物であり、視聴者の需要に最適化された存在。
ふと、先ほどのココとの会話を思い出した。
アンドロイドは個々に設定された思考の傾向、すなわち性格と学習機能によって人間にごく近い会話を可能とする。だから彼女の口からああいう質問が飛び出るのは別に不思議なことではない。
でも驚いたのは確かだ。それは非常に私の核心を突いていたからだ。
そうだ。私は他人と深い関係を持つことが下手で、煩わしくて、本物の人間に期待することに疲れたから、効率的で裏切らない偽物――アンドロイドで孤独を埋め合わせようとしているのだ。
誰よりも浅ましく文明の利器にすがりつき、世の中に目を瞑り、耳を塞いで、内側に創り上げた世界にこもっているのは、他でもない私なのだ。
恥ずかしい。ああ何て恥ずかしい人間だろう! 恥を塗り重ねてきた人生の、その屍の上で更に独り善がりの恥をかいているのだ。私のことなどもう誰も見向きもしないのに、恥だけがいつまでも私の心を乱すのは、心は子供のまま大人になってしまった男の、肥大した自意識の塊だ。
そうやって一人悶えるのも虚しく、リビングのソファーから私は立ち上がって冷蔵庫へ向かった。下戸でろくに気持ちよく酔えない私だが、唯一好きで飲んでいる梅酒のパックを手に取り、それをロックで割り、一口。憂鬱になった時に梅酒を舐めるのが癖になっていた。
そこへ風呂を入れ終えたココが帰ってきた。
「あ、主お酒飲んでいますね。ご一緒します」
「ココ……」
こみ上げてきたのは、どしようもなく切ない愛おしさだった。
「ごめん。少し、慰めて欲しい」
「分かりました」
そして私はソファーの反対側に正座になり、テーブルの上にグラスを置いた。冷えたグラスには露がついて、やがて一滴つーっと垂れていった。
そして、こういう時はいつもそうしてもらっているように、ココは背後から優しく私を抱きしめてくれた。
人肌の温もりはない。でもその体は柔らく、頬に当たる銀色の髪は仄かにいい香りがした。
ささくれた心が癒えていく感覚。
ああ、やっぱり、これがいい。
「ありがとう」
「いいえ」
ココの少し低くて澄んだ声が、酒よりも何よりも私を酔わせる。
「ねえ、僕が君にパートナーとしての役割を求めて、それに満足することを、君は哀れだとか、愚かだと思うかい?」
この世界は色んなものが足りているのに幸せに生きられることは当たり前じゃなくて、そんな人々の中の一人である私には、いい仕事に就いて、素敵な人と巡り会って、結婚して、家庭を持って、そして子供を産み、なおかつ幸せにしてあげることなんて途方もないことに感じる。
私は自分の人生に責任を持つだけで精一杯だ。それ以外のことにまで責任を取る余裕なんてない。
だがら私は、こんなごっこ遊びみたいな日々を止めることはできない。今だけは幸せだと、言い切れる瞬間を手放してまで何かを掴み取りたいとは思わない。
それでも尋ねたのは、きっと自虐だ。
「……私は」
ココは少し間があって、やがて落ち着いた声音で答えた。
「私はただ、主の求めるものに応えるだけです」
「あはは……少し質問が難しかったね」
私は苦笑いしながら、ココの腕の中でまどろむように目を閉じた。