コンピューターゲームには夢がある
ゲームの発展。その流れに陰りが見え始めたのは何がきっかけであったか。
ゲームという存在は変わらず続いているが、その内情は大きく変わっていった。
様々な面でゲームに付加価値が付き複雑に見えるようになってしまったからか。
美麗な映像である事が「当たり前」になり、製作にかかるコストや人員が昔と比べ段違いになった事か。
同じく急発展していたインターネットや手軽なアプリなど競合対象が増えゲームの販売本数が減少したからか。
仕事・学業などの忙しさや他の娯楽との兼ね合いなどでゲームに割ける時間が減ってしまったからか。
作り手・利用者それぞれに理由はあろうが、ゲーム製作は携帯機やスマホでのDL販売・課金が主流となり、アーケード・家庭用(据え置き)共に技術的な最先端を追い続けられるメーカーはごく一部となった。
そして一昔前にあれだけ乱立していたゲームショップやゲームセンターもその数を大きく減らした。
儲からない故に撤退する。商売として、企業として全くもって正しい。
だが、寂しい。
あの頃の片鱗を知る者として。あの熱狂や高揚感を知る者として。
だからと言ってゲームの市場が縮小した今の状況が悪いとは決して言えない。
主流を逃して縮小するのは世の常であるし時代が変われば状況も変わる。当たり前の事だ。
今のゲームに比べ昔のゲームの方が面白かった・楽しかったという意見をたまに見る。
ゲームの芯の部分など年数が経とうとも変わらぬ良さという物もあり、間違った意見だとは思わない。
だが昔が面白かった=今が面白くないという事では無い。
もし今のゲームを面白くないと思う・感じるようであれば、酷な言い方だがそれは自身の問題だろう。
昔ほどゲームを楽しめなくなってしまったという、ゲームが好きであれば好きである(あった)ほど認め難い残酷な事実。
楽しめなければすっぱり諦めてしまえば良い。
それが嫌なら楽しもうと足掻けば良い。
決めるのは自身だ。悔いの無い方を選べばいい。
間違っても自身が楽しめない事実を他の何かの所為にしてはいけない。それは自身の言葉の重みを減らすだけの事にしかならないのだから。
ここまでは謂わば主観的な過去の振り返りであり自身の想いの再確認であり自戒でもあった。
そしてこの先は今の自分の考えであり今のゲームを楽しめている人達への問いかけでもある。
ネット経由で人と関わる要素が多くなったなど昔と比べ変わった点も多いが、それでもおそらく今ゲームを楽しんでいる若い人達は、あの頃の自分がそうだったように純粋にゲームを楽しめているのだろう。
自分がそれを楽しめているかを自覚せずとも夢中でプレイしてしまう。そんな純粋な楽しみ方を出来ているのだろう。
例えば心奮わせる物語。美しい世界。派手なアクション。
現実ではとても出来ない仮想ならではの体験を、今の時代に沿った形で出来ているのだろう。
昔に比べ娯楽において占める割合が減ったとしても、自分自身が直接介入出来る娯楽としてゲームはこれからも唯一無二の存在で在り続けるだろう。
自分は楽しんだ。今の人達も楽しんでいる。きっと未来の子供達も楽しむだろう。
コンピューターゲームには夢がある。
時代が変わり夢の形や内容が変わってもそれ自体は不変な事だと思うのだ。
かつてゲームにハマり今なおいい歳こいてゲームをやり続けている一人のゲーマーとして、そうあって欲しいと切に願う。
温故知新という言葉があるが、思い出話は過去と現在の溝を深めるための物ではなく現在をより良くするためのものであるべきだと思う。
今の若い人達もきっと将来思い出話を語る時が来る。
自身が若かった頃の様々な事が輝いて見える。
色々世知辛い事も多いけれど、あの頃の自分と同じように、今の若い人がそんな「今」を過ごした・過ごせている事を願っています。