限られたキラメキ (5)
作業は順調だった。思ったよりもハイペースで進んでいて、予定を前倒しして完成の目途が立ってきた。みんな嬉しそうだ。ヒナも嬉しい。こうやって何かを成し遂げるのって、やっぱり良いものだ。万事がこのままであってくれれば最高だったんだけど。
問題っていうのは、大体忘れた頃に起きるものだ。
その日は、まだ日数的には余裕があるが、ここで一気に仕上げてしまいたいということで、深夜作業の申請を学校に提出していた。陽が落ちてもまだ何人かの男子が残って、熱心に作業をおこなっている。何か差し入れを買って来た方が良いかな、と思って、ヒナはハルと一緒に近くのコンビニまで買い出しに出かけた。
思えばこれが失敗だった。その時残っていた男子たちは、ちょっと目を離すとすぐにふざけ始めるような、少々やんちゃな連中だ。仏心なんか出して何か買ってきてやる必要なんて無かったかな。ハルも、ヒナ一人で行かせないようにって付き添ってくれちゃったし。監視の目が無くなったことが最大のミス。はぁ。
帰って来た時には、もう異変は起きた後だった。ペットボトルボートが破壊されている。バラバラになったペットボトルが散乱し、ボート本体も無残にひしゃげた状態でひっくり返っている。誰かが力任せに振り回したみたいだ。
「これどうしたの?」
どういうことだろう。ただごとじゃない。慌てて残っていたはずのクラスメイトたちを探すと、プールサイドで全員がのびていた。ええ?ちょっと、本当に何があったの?
「あ、曙川」
駆け寄って声をかけてみると、意識はある。まずは一安心。ジャージがびしょびしょ。プールに入った感じだ。ん?まさかヒナが目を離していた隙に、飛び込んだり泳いだりとかしなかっただろうね。
「どうしたの?」
「よくわからない。急に殴られたみたいで」
殴られた?穏やかじゃないね。まだ朦朧としているのか、言うことがはっきりとしない。みんな同じ状態だね。血とかは出てないし、外傷は無い。骨が折れてる訳でも、痣がある訳でもない。これは、実際の物理的な攻撃じゃないかもしれない。
「先生を呼んでくるか?」
「ちょっと待って」
プールの外に出て行こうとするハルを引き留めた。全員命に別状は無いみたいだし、あんまり大事になって、深夜作業が出来なくなるのも面倒だ。何より、プールの使用自体を取り消されてしまったら目も当てられない。まずは今のうちに銀の鍵で記憶を改めさせてもらおう。
予想通り、ヒナたちが外に行った後、彼らはジャージのままプールに入って遊んでいた。馬鹿だなぁ。せめてジャージ脱ごうよ。準備運動しようよ。今さら何を言ってもどうしようもないんだけどさ。
その後、何かが襲い掛かってきた。黒い影だ。人型。大きい。
「誰かにやられたの?」
「それが」
男子連中が何で言い渋るのか、良く判った。彼らの認識能力をちょっと超えているというか、こんな現実があるって認めたくないのかもしれない。
ゴリラだ。
なんでゴリラ。っていうか、ホントにゴリラだ。なんだこれ。
とりあえず男子たちの記憶を少し操作する。ゴリラとか訳の判らない襲撃者のせいで、色々と混乱しちゃってるからね。状況が整理しにくいかもしれないけど、まあ、プールでふざけていたことだけは認めてもらうよ。そこはゴメンなさいしてもらう。
男子たちはなんだかよく判らない、という感じで起き上がった。判らんだろうね。ハルが手を貸して、全員プールから出ていってもらう。今日の所はお家に帰って休んでいてくださいな。
問題はその後だ。壊されたペットボトルボート。そして。
誰かに、何かに襲われたっていう事実。
「とりあえずあいつ等はみんな大丈夫みたいだ」
ハルが男子たちが無事に下校するところまで確認してくれた。ありがとう、ハル。はぁ、それにしても、明日からのことを考えると憂鬱だ。
元を正せば、ゴリラなんて半信半疑であまり重要視していなかった、ヒナのせいでもあるかな。だから、お互いに言いっこなし。責めは甘んじて受けましょう。ヒナは責任者なんだから。
しかし、ゴリラか。本当にゴリラが出るんだね。どういうことなんだ。これはちょっと、今後のためにも確認しておいた方が良いかもしれない。
夜のプール、眩しい灯りに照らされて、ちゃぷちゃぷと静かに波打っている。温水だし、プールサイドにいると自然と汗が噴き出してくる。水の中につい入りたくなってしまう気持ちは、解らないでもない。
「ハル、ちょっとごめんね」
ひと声かけるだけはかけておこう。あんまり驚かせるわけにもいかない。あと、そうそう、メイコさん、ごめんなさい。ヒナ、ちょっとだけ悪いことします。
ん?と振り向いたハルの目の前で、ヒナはジャージのままプールにざぶん。うわー、スローモーションみたいにハルの表情が変わっていくよ。面白い。ハル、すごいびっくりしてる。
「ヒナ、どうした」
「大丈夫大丈夫、ちょっと落し物」
笑顔で手を振って応える。さ、悪い子が出たよ。ゴリラさん、いるんでしょ?
水に身を任せて、ぷっかりと仰向けに浮かぼうとしてみた。ああ、ジャージが水を吸って結構重いな。着衣泳って想像していたよりもずっと大変だ。脱いじゃおうか。でも、それだと悪い子レベル下がっちゃう気がするな。メンドクサイ。
銀の鍵に意識を集中する。前に感じた何かの残り香。そうだね、どんどん濃くなってきてる。近付いてくるのが判る。おいで。ヒナの前に姿を見せて。
プールサイド、ハルの後ろに、黒い影が揺らめいた。虚像から実像へ。次第に輪郭が明確になる。ああ、やっと姿を見せてくれたね。
うん、ゴリラだ。屈んだ状態でハルよりもはるかに大きい。普通じゃ無いことは容易に見て取れる。いや、プールにゴリラがいる時点で普通でもなんでもないか。ハルには見えてないみたいだし、明らかにそういう存在なんだろう。
むしろ笑えるなぁ。ヒナはぼんやりとゴリラを眺めた。向こうも少し戸惑っている様子だ。ゴメンね、ヒナも普通じゃないんだよ。ゴリラに向かって意識を集中する。さて、ナシュト、こいつなんなの?
「集団投影だな。複数の無意識によって生成されている。恐れの具現化、と言ったところだ」
なるほど。ということは、これって水泳部のみなさんが作り出してるって認識で良いのかな。ルールを破るとゴリラが罰を与える。それが形になるくらい浸透していると?
えー、それはちょっとあり得なくない?やっぱりストーリー展開は1点だよ。そこでゴリラが出てくる必然性はゼロだよ。メイコさんだってゴリラに関しては半信半疑だったじゃない。なんでゴリラなんだよ。何回でも言うよ、なんでゴリラなんだよ。
ゴリラがヒナの方を不思議そうに見ている。いや、キミの存在を否定しているわけじゃないんだ。そもそもキミが何でそんな姿をしているのか、ってところに疑問を呈しているのだよ。まあ、言葉なんて通じないんだろうけどさ。
なんか愛嬌があって可愛いなぁ。これ、ホントに恐れの具現化なの?男子が襲われたってのが無ければ、ヒナにはすごくコミカルに思えるくらい。ひょっとして、ヒナに悪意が無いのが判るのかな。うん、試しちゃってごめんね。すぐに出るから。
よいしょってプールから上がる。水を吸ったジャージが重い。うわぁ、これつらい。勢いだけでこんなことするんじゃなかった。ゴリラはちょっと目を離したらもう消えていた。なんか面白い。学校の七不思議にするとどんな感じかな。プールのゴリラ。なんだそりゃ。タイトルだけで意味不明。
「ヒナ、大丈夫か」
ハルが心配そうにヒナの顔を覗きこんでくる。大丈夫だけど、ちょっと失礼。
ジャージのジッパーを勢い良く降ろす。ふう、重い。上着を脱ぎ捨てると、べしゃり、って音がした。はぁー、楽になった。ハルがホッとしたような顔をしている。ふふ、心配した?
「ごめん、ビックリした?」
「した。もう、勘弁してくれ」
えへへ。ごめんなさい。ハルがヒナの頭に掌を乗せる。くしゃくしゃって撫でる。心地良い。
このままいちゃいちゃしたくなってくるけど、事態はまだ収まってないんだよね。ゴリラの存在は確認出来た。言うほど危ないものでもなさそうだし、こっちがルールを守っている分には問題なさそう。
後は、壊されちゃったペットボトルボート。今日の所は破損状況の確認と、お片付けかな。
そして、明日。
「ハル、頼まれてくれる?」
とりあえず口裏は合わせておきたいので、ハルに方針を説明する。ハルの心だけは読まないし、書き換えないって決めてるから、言葉で話さないといけない。ハルの表情がどんどん険しくなってくる。うう、そんな顔されましても。
「ヒナ、それで良いのか、本当に?」
しょうがないよ。ゴリラなんて誰も信じないだろうし。それに、彼らに何もかも押し付ける訳にはいかないでしょ。ハルにとっては、ヒナが一方的に責任を負っているようにしか思えないかもしれない。でも、これで良いかなって、ヒナはそう考えてる。
「責任者だからね。責任取るのもお仕事だよ」
まだ何か言いたげなハルを、ヒナは目で制した。良いんだ、これで。
「みんなが楽しく学園祭を迎えられる。それが一番なんだ」
やれやれ、大舞台はもう終わったと思ってたのにな。ジャージの上着をぎゅうっと絞る。おお、吸ってる吸ってる。