アイルハイドネアの生贄
時間は太陽を隠しながら、少しずつ視界を、闇へと誘っていく。
もう、随分と肌寒くなった十一月の午後七時前。小さな村の教会、アイルハイドネアに、一人の少女が入り込んだ。
その教会、アイルハイドネアは、かつて多くの人々が出入りしていたが、今では、中を通るのは、蝙蝠や迷い猫ばかりで、少女のほかには誰一人通わなくなった。
教会の姿はまさに廃墟。壁だの天井だのの部品で瓦礫だらけの床に、今にも崩れそうな、ヒビの入った壁。美しい絵画が描かれていた天井も、今では雨を直に通すほど崩れ落ちていた。人が入らないこの場所は、見事なまでに荒廃しきっており、もはやそこから神の気配など微塵も感じない。
枯れ果てたようになってしまったのは、なにもこの教会だけではない。この教会のある村全体が、もう、壊れきっていたのだ。村の寂れが原因か、たびたび失踪者を出すこの村は、危ない場所として恐れられるほどだ。
そんな場所に、一人入り込む少女は、ずるずると耳障りな音を立てながら、少しずつ祭壇に近づいていく。右手に何やら白い塊を引きずって、一歩一歩、確実に、色見のない灰色の祭壇へと歩み寄る。右手に持ったものが通った後には、赤褐色の筋が、フラフラと地を這うように伸びていた。腰あたりから血を流す、子山羊である。
ようやく祭壇にたどり着いた少女は、右手に持った子山羊を床に置き、壇上に置かれた大きな銀の器を持ち上げた。たっぷりと注がれた赤茶色の液体は、少しだけ粘り気を持っている。その器を持ったまま、少女は祭壇から少し離れた場所の壁に歩み寄り、器に入ってる、液体を吸い込んだ毛皮を持ち上げ、壁に、大きく縦十字を描いた。
壁の十字は、少女がこの場所に来るたびに書き加えているものであり、その数はもうCLXXX(180)を超えていた。その数は、この大きなアイルハイドネアの壁で、彼女の背丈が届くくらいの、低い部分を覆いつくすのには十二分な数だった。
少女は、先ほど描いた縦十字の上に、少し小さめに「CLXXXVII」と記して、それから、器の中の液体を全て外に捨てた。
銀の器を元の位置に戻してからは、真下で、持ってきた子山羊に刃物を突き立て始めた。そして、そこから出てきた、捨てたばかりの液体とは遠い赤みを帯びた液体を、祭壇に置きなおした銀の器の中へ注ぎ込んだ。
それから、巨大なペンチのようなもので角を折り、胸の真ん中の柔らかいものを取り出し、そっと、銀の器の中に盛りいれた。カラン、と、器の音が、アイルハイドネアの夕闇に響いた。
少女は、残った物を教会の外へ連れ出し、そのまま、静かに解体した。それをそのまま枝につりさげる。
お世辞にも白いとは言えないほどくすんだローブの内ポケットから、火打石を取り出し、火を起こして、少女は、子山羊を焼くつもりなのだ。
頃合いを見て、子山羊の肉に、優しい焦げ目がついたとき、少女は火を消した。夕焼けの刻はとっくに過ぎていたが、幸いにも月明かりがひどく明るいので、少女は困らなかった。
焼けた肉を、具合のいいものと悪いものに分け、良いものだけを担いで、教会の中へ入れた。
祭壇に肉を置き終わったときに、少女以外の男が、亡霊のようにアイルハイドネアへ入ってきた。少女は、怒るでもなく、怯えるでもなく、ただ、痩せた瞼を全開に開ききって、男を凝視していた。
「こんなとこにいたら危ないよ。」
少女の前に現れた男は、旅人であろうか、やたらと荷物の多い青年だった。男は、少女を知らない。故に、声をかけたのだ。
「この村は随分前にやられてしまったみたいだから、まさか人がいるなんて思いもしなかったよ。こんな時間にここで、小さな子がうろつくと危ないよ。動物に襲われるかも。」
男は、一向に凝視をやめない少女を気にせずに、続ける。
「最悪の場合、僕みたいな人に襲われちゃうよ。・・・今回は僕だからよかったものの、もしやってきた人が、人を喰らうような存在だったら、どうしたんだか。」
男は、少女が小柄なことで警戒心が薄れているのか、微かに笑いながら話していた。
「何をしにきたの?」
少女は、強く結んでいた口を、そっと開いた。蚊の鳴くような、また地に響くような、そんな声だった。
男は少し得意げに、こう言う。
「僕は見ての通り、通りすがりの旅人さ。仲間もいない、野生みたいなもんだね。それより、君こそ、こんなところで何をしているの?」
少女は、答える。
「待っているの、ずっと。」
少女はすっと、祭壇よりもっと上の、石像とステンドグラスを見上げた。それらはもう、ボロボロである。
「待っているって、誰を?神様をかい?たった一人で、ここにいてもあとは死ぬだけみたいなものじゃないか。」
男は、少女の瞳の行き先を鼻で笑った。自分は、確かな知識と確かな荷物とともに、自ら進み、旅をして生きていることに誇りを持っていた。同時に、現実味のない神という存在を、ただ一人待ち続けているだけの少女の、宛のない視線を無様に思ったのだ。
男は、仕方がない、俺が救ってやろうとでも思った。そうして、祭壇近くの少女に数歩歩み寄った時に、ちょうど上から月明かりが降ってきた。
そのとき、男はぎょっとした。
月明かりによって照らされた足元が、いや、今自分のいる場所、アイルハイドネアの床が、血まみれであることに男は今更気が付いたのだ。それによって、あたりを見回した男は、壁に描かれた大量の縦十字が血で書かれたものだということも、あたりが微かに生臭いことも、少女の服が、紅く染まっていることも、ようやく気が付いた。
そして男は、自分が歩いてきた山道にあった血の跡や、隣町で聞いた民衆の失踪事件のことを思い出した。それと共に、恐ろしいほどの悪寒を伴う、「嫌な予感」がした。
残念なことに、男は誇り持ちの旅人でありながら、冷静な判断力に欠けていた。男は咄嗟に声を上げる。
「そんなことを・・・こんなことをしたって神様は戻ってこないよ。」
出た言葉はそうだった。自らの身を守るためには、あまりに拙すぎた。
少女は、混乱で身動きの取れなくなった男を、斜め下から、穏やかな目で見ていた。その小さな顔に、笑みはない。
「戻って、来ないよ。だって、かみさまはここにいるんだもの。」
少女は、ちょうどしまったばかりだったナイフを取り出し、素早い動きで男の胸元に飛び込んだ。少女と男の距離は、わずか六メートル程だった。男は、油断しすぎていたのである。だが、無残に崩れ落ちた彼に、もうそんな話は意味がない。
「かみさまは、ずっとここにいるの。私のことを、ずっと待ってくれてるの。だから、私は集めなきゃいけないの。あなたは188個目。私は200個目。もうすぐなんだ・・・」
少女は、床に伏したままの男にそう言った。返事はない。
「今日は、いつもよりいっぱい集めましたよ。」
男の手を、少女は右手で掴んだ。まだ、ぬるい。
「待っててくださいね。私、199まで頑張ったら、最後に褒めてくださいね。その時に、一緒にここから逃げて、もっともっと、暖かい場所に行きましょう。」
誰もいないはずのアイルハイドネアに、かわいらしい、少女の優しい声色が通る。
少女は、もう一度、祭壇の上高くに見える、汚れきった石像とステンドグラスを眺めた。その黒ずんだ石像が、彼女には、何よりも美しく、輝いて見えた。
そこに、神様はいるのだ。
眩しさに目を細めて、ふっと微笑んだ200番目の生贄は、右手のものを引きずりながら、アイルハイドネアの闇へ、溶けて行った。