夜空を歩く
とるにたらない夜だった。どこかで人が轢かれ、どこかで人が交わっていた。なんでもない。ただの夜だ。だが、明子は夜を自分のものにしようとした。十一才の彼女はマフラーを首に巻いてこっそりと家を出た。
明子は公園に行くつもりだった。その公園には大きな噴水があった。夜になると周囲に光がともされる。その中で水が交響曲にあわせて踊るのだった。明子はそれを見たかった。たとえカップルたちが噴水の周りのベンチで抱き合っていようが、見たかったのだ。
明子が家を出たとき、一人の男が公園に近いビルの屋上に立っていた。彼は屋上の端に立っていた。一歩踏み出せば、落ちることができた。冷気が彼の首にまとわりついていた。彼はポケットに手を入れて、じっと遠い地面を見つめている。自分の死体がすでにそこにあるかのように、じっと。
思い出は苦しい。年をとるにつれてそのことに気が付く。ベンチに座る老人はそう考えた。彼は明子が目指してる公園のベンチにいた。周りのベンチは若い男女で埋まっていた。老人はベンチに浅く座っていた。背を伸ばして、こぶしを両膝にのせていた。視線は淡い光を放っている水面に向けられている。そこから何かを待ち受けているようで、そして何も受け取る気はないようだった。暗闇の中で若者たちがうごめいている。老人はじっと水面を見つめている。
明子は短い夜歩きを終えて、公園に入った。点々とある街灯が明子の行くべき道を照らしていた。明子は芝生を横切って、そのさきにある大きなくぼみへと向かった。くぼみ。噴水の間近に行くには、二十三段の階段を下りなければならない。明子は階段のふちに立って、下に広がる光景を望んだ。ベンチのほとんどが埋まっていた。明子はぐっと口を引き締めた。何があろうとどこかのベンチに座る気だった。風が明子の背中をそっと押した。明子は一歩踏み出した。
そう、風が吹いている。ビルの上にいる男は幻聴を聞いていた。若い女の声だった。
「あたしはそこから一歩踏み出したわ。それから歩いたの。夜空をかつんかつんって歩いたの。空気がこおっちゃいそうなくらい冷たい夜でしたもの。どうして夜空を歩いて、雲に腰掛けて、月にキスができないと思うのかしら。大気はあたしを支えてくれたわ。あなたのこともそうしてくれる」
幻聴を繰り返し聞き続けている男は、一つ口笛を吹いた。目をつむったまま口を開き、私的なマントラを唱えた。
「絶好、絶好、絶好調。オレは何も知らない。何も聞こえない。夢も見ない。心は納屋で首を吊って死んじまった。体は悪魔の手の中にある。オレは体を動かすが、動かない。右手が左手をつかむのはオレのせいじゃない。人を殺したとしてもオレのせいじゃない。胸はドキドキしている。いつでもイケるぜ。絶好、絶好、絶好調」
男は右足を宙に放り出した。
明子は右足を地面につけた。顔を巡らせて、設置されてるベンチの空席を勘定した。一つもなかった。ポケットに手を突っ込んだまま、顎をマフラーに埋もれさせたまま、互いの体温で暖を取り合っている生物たちを睨んでいった。一つだけ、一人で座っているベンチがあった。老人のベンチだった。明子はその片隅にちょこんと腰かけることにした。老人はじっと水面を見ているままであった。明子も前を見据えて開演を待った。二人は草原の向こうを睨むウサギのようにして、座っていた。
重心が前方に傾いていく。彼は最後の瞬間を見ようとして、一度目を開けた。街の光がにぶく彼の死に場所を照らしている。足をふらふらと揺らす。左足が少しずつ前方へ、虚空へと移動していく。彼は身を丸めて、地表を覗きこんだ。彼の耳に風が当たった。その風は一つの音を伴っていた。男は足を揺らすのをやめて、背を伸ばす。右足をふちにかけて、左足を後方へとずらした。男は街の方を見つめた。また一つのフレーズが大気からにじんできた。男は森のような場所を見る。そこから微かな調べが漂ってきていた。
明子はその調べをはっきりと聴いていた。その調べに合わせて噴水は踊っていた。その踊りは熟れたものだった。彼らは同じ時刻、同じ曲目で変わらないステップをずっと踏み続けていた。滞りなく一つの曲が終わっても、彼らに拍手を送るものはいなかった。恋人たちはたがいに呼気を奪うことで忙しいようだった。だから明子はぱちぱちと拍手を送った。
老人はちらりと明子を見た。幕間に拍手は必要ないのだ。二曲目が軽やかに始まる。勢いよく放出される水は、定められた軌跡を描いていく。水面下では機械が動き回っている。これ以上ないくらいに機敏に。
明子は彼らの息の合った動きにずっと目を奪われていた。昼間の時の踊りとは違って、その踊りは月と星とに捧げられたものだった。照明は極限まで抑えられて、着水する音も同じくささやかなものだった。水はさらさらと流れて、舞い、散って、夜の音を求めていた。それは耳を閉ざしても鳴り響く音だった。明子にはその音が何を意味するのかはわからなかった。しかし、胸を鳴らすことは出来た。老人はその音を知っていた。それは死だった。
死は屋上にあった。若い男はそう思っている。彼の恋人はビルから飛んだ。書置きを残していた。いや、残していなかった。男にとって意味のある書置きではなかったのだ。
男はいまだにビルのふちに立っている。夜の声が公園から漂ってくる。君は間違っていない。君は夜空を歩けるようになる。君は何も間違っていない。さあ、やれ。
明子は拍手をした。すべての曲目を終えた広場にはその音がよく響いた。隣にいた老人はじっと明子を見ていた。明子は立ち上がって、老人を見て、ぺこりとお辞儀をした。老人もうなずいて口を開いた。
「独りで来たのか?」
「はい」
「危ないね。空から人が落ちてくるかもしれない」
「人?」
「夜空を歩こうとする人間がいるんだ。それがたまたま私の孫だった。君は私の孫に似ている。独りでも拍手ができるところが特にそうだ」
「拍手して、いけなかったの?」
「ああ。忠告するよ。独りで拍手するのはやめた方がいい。せめて二人で拍手しなさい。それだけを言いたかった。気を付けて、帰りなさい」
「……、はい。さようなら」と明子はお辞儀をしてから、走り去った。
老人は目を瞑って、ベンチに深く座った。サイレンの音がした。それから、老人の頬に冷めた涙が跡をつけた。