シェイクスピアとドストエフスキーにおける自我の分裂について
多分、誰しもが何かに向かって書いているのだろう。生きるという事は、誰かに向かって、決して伝わらない思いを表白し続ける事ではないか。
言葉というのが、人間の口から出ると、概念となる。だが、その言葉は逆に我々の脳を規制する。ジョージ・オーウェルが、1984年で言語の問題に固執したのは、言語の方から思考を規制する試みには、かなりの効力があると見て取っていたせいだろう。インターネットでは今日も、同じような言葉が溢れている。そしてそういう世界の中では、驚く事に、メディアの言葉が自分達の言葉になっている。ネットやテレビの言語が、あるいはその考え方が、いつの間にか僕達の脳髄とぴったり一致するものになっている。そして人は、それを正義だと思い込む。
小説というのは何だろうか。あるいは、文学とは何だろうか。僕は心の底からシェイクスピアを尊敬し、崇め奉っているのだが、彼なら、何と言うだろうか?。僕にとってシェイクスピアは、神である。彼は僕にとっての神そのものである。そしてこの神は、悪も善も差別しはしない。悪も善も平等に物語の中に盛り込まれ、そして作品は最後に美しい終末を迎える。
善人がひどい目にあい、悪人が良い目にあう。その事を僕達は誰もが知っている。しかし、それを是認する事はできない。なぜか。誰しもが自分自身の正当性を信じているからであり、また同時に、自分という個体から、その意識=精神が抜け出せないからである。だが、シェイクスピアの精神はそこから抜け出す。彼は、全世界を安々と見下ろす。そして、彼は筆を下ろす。すると、まるで神が世界を創造するかのように、新たな世界が創造される。そこでは、悪人が良い目にあい、そして善人がひどい目にあう世界である。しかし、悪人は最後には報いを受け、善人は最後には勝利する。最後には。信じていたものに裏切られ、自死するその様を、シェイクスピアはその人物だけに入れ込んで書いたりはしない。おそらく、シェイクスピアにとって常に念頭にあった、偽善的な、口だけ達者の悪人すらも、彼の中では、彼の手によって平等に描かれる。汝の敵を愛する事、汝の敵を理解する事。そして、それを自分自身と同じ秤に入れて図る事。こんな事が小説修行の段階にあるのなら、まず、小説志望者の全員がこんな難行を放り出すだろう。誰だって自分というものがあり、自分の考えがある。自分の敵を理解するのは苦痛である。しかも、その敵を自分と同程度の存在と認めてやるという事は、人間にはほとんど不可能なくらいの難行であろう。しかし、シェイクスピアはそれをした。彼はそれをやったのだ。だからこそ、彼は、散文の世界においては神のような位置に辿り着いた。彼が人間を見下ろす視点は正に、神そのものの視点なのだ。
例えば、次のような文章を見てみよう。
「どこかで声がしたようだった、『もう眠りはないぞ!マクベスが眠りを殺してしまった』」
これは『マクベス』の序盤の文章である。もう眠りはないぞ!…とは、どういう事だろうか。マクベスはこのほんのすこし前に、自分の君主である王を暗殺してきたところなのだ。ここで、既に殺人からくる狂気のその一例が、もののみごとに、鮮やかに示されている。ドストエフスキーなら数十ページで記す所を、シェイクスピアは鮮やかな瞬間の手つきで描写してみせる。ここでシェイクスピアが描いているのは、人目にしれぬ犯罪ーーー暗殺から起こる人間心理の、その変調である。ここで、この殺人者は眠りを殺される。何故か。このマクベスに、罪の呵責はない。この事は、世間一般の常識人には腹立たしい事だろう。しかし、常識人たちにはわからない事が一つある。それは、罪の呵責は意識のレベルに現れた狂気であるが、しかし、それが意識の表面に現れなければ、本物の狂気となってその人物を襲うという事だ。ラスコーリニコフを襲ったのは、殺人による罪の、その呵責ではなかった。彼は既に良心を殺していた。彼は既に良心を殺していたからこそ、その下部の、無意識によって復讐を受けたのだ。眠りを殺されたーーー。人を殺すとは正にそういう事だ。自分が殺したという事実が、その罪が他者にばれる事にたいする恐ろしさ、あるいは、自分が人を殺したように殺されるのではないか、という恐怖心となって、その人物に振りかかる。そしてこの事実をシェイクスピアは、『マクベスが眠りを殺してしまった!』というたった一筆の文章でもののみごとに描いているのだ。
もう一つ、それほど重要ではないが、マクベスから文章を一つ、抜き出しておこう。これはマクダフとマクベスとの最終決戦、一対一で戦う、最後の決闘の場面だ。
(マクダフがマクベスを呼び止めて)「待て、地獄の犬め。待てというのに」
これは、特になんという事のない文章であるし、マクベスの中でも格別重要という事もない。しかし、この『地獄の犬』という暗喩ーーこういう比喩が至る所に散りばめられる事によって、シェイクスピア作品の広大な世界は作られている。僕はその事を言いたいがためにこの文章をわざわざ取り出してきたのだ。例えば、これが
「おい、待て。マクベス、待つんだ!」
でも、言葉の意味としては特に問題ないし、小説としてもそれほど問題はない。しかし、シェイクスピアの狙いは、こうした言葉では達成できない。シェイクスピア作品を読んだ事のある人ならわかるだろうが、彼の作品はどことなく映像的である。シェイクスピア作品を読み終わると、何か、壮大かつ深遠なハリウッド映画を見終わったような感銘を受ける。こういう、シェイクスピアの映像的な効果というのは、実は単なる映像的なものではない。それはゲーテも書いている事だが、シェイクスピアの文章が生み出す像、イメージというのは、おそらく言葉でしか表現できないような広大なイメージの山積なのだ。例えば、ロミオとジュリエットの、
「こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました」
という文章。こうした文章も実に映像的である。この時、読者に、ロミオの背中に実際に翼が生えていると考える人間はおそらくいないだろう。しかし同時に、この台詞は、リアリズム的な観点からすれば、余りにもうそ臭い、胡散臭い台詞ではある。しかし、それでもなおかつ、この言葉は真実である。こういう言葉を読むと、誰しもが、自分の身に起こった(あるいは想像上の)恋の情熱を思い出すだろう。シェイクスピアの根本的な狙いとは、人間の内面にある、感情や情動を極めて強大な形で誇張する事にある。リア王が嵐の中で嘆くあの場面を思い起こせば、リアのあの嘆きはなんと不自然な事だろう。しかし、シェイクスピアはそんな不自然を気にしない。彼は僕達が思わずブレーキをかけてしまうリアリズムを、軽く踏み越えていく。彼はリアの内面を表現する為には、天候さえ操作する事を自身に許した。人間の内的なものを散文において徹底的に掘り起こし、完全、いやそれ以上の形で表現するというその形式は、シェイクスピアにおいて既に一つの頂点に立っているのだ。だから、彼は芸術の神の一人に数えられてもいいだろう。それは例えば、彼が、芸術的なものを表現する為に、徹底的に、それ以外のものを酷使しているという点にもその根拠がある。彼は、人間の内面を表現する為に、それ以外の全ての道具を酷使する。例えば、政治。極端な話、ロミオとジュリエットにおいて、モンタギュー家とキャピュレット家が対立しているのは、ただ単に、ロミオとジュリエットのその悲恋の感情を高める為なのだ。ロミオとジュリエットにおいては、当然、この悲恋が主題なのだが、その為に、シェイクスピアは人間の生死すら軽々ともてあそぶ。そして、生死を越えた所に二人の恋の感情がある所を示唆する。シェイクスピアはこのように、人間の内面を徹底的に表現する為に、その為に、この世界全部を好きなように動かしてしまう。こう考えると、このような芸術家にとって、この世界とは徹頭徹尾主観的なものであり、そして、それは彼が創造する事ができる何かであったに違いない。そして、彼が、この惑星系の一番中心に置くのは人間の感情、内面、その源泉であり、シェイクスピアの世界においては、この源泉の感情を表出させる為には、全ての物事がこれに対して自分の身をさらし、我が身を犠牲にして、それを表現する事を助けなければならないのだ。これがシェイクスピア作品の意味であり、またこれこそがシェイクスピアの作った宇宙である。
シェイクスピアこそが文学の頂点であり、ここで文学の歴史は終わった、と言ってもいいのだが、しかし、その後にドストエフスキーが現れてきた。ドストエフスキーはおそらくシェイクスピアを深く崇めていたと思うが、直接、そういう事は言わなかったように思う。ドストエフスキーはシェイクスピアとは時代が違うが、しかし、かなり似通っている部分がある。ドストエフスキーにおいて徹底的な事は、その惑星系の中心にあるのはなんだろう。それは、シェイクスピアと同じく、人間固有の内面的な、感情的なものなのだが、それはさすがに時の経過もあって、シェイクスピアよりはるかに複雑なものになっている。それでは、今度は少し、ドストエフスキーの作った惑星系について見てみよう。
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(カラマーゾフの兄弟の下巻、十一篇。アリョーシャとイワンの父親である、フョードルの殺人事件が起こった後、アリョーシャとイワンが討論する)
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのは『あなたじゃ』ありません」
「〈あなたじゃない〉! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャが、しっかりした口調でくりかえした。
三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ。うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いを浮かべて、イワンが言い放った。
この会話だけ取り出しても、わかりにくいだろう。しかし、おそらくはこのような会話はこれまでのどんな小説にも書かれた事がなかったし、また、その後にもこのような会話が書かれた事はなかった。このような会話ーーー人間心理の深淵を歩行するようなーーーは、もちろん、現実生活でもありえないので、こういう会話はドストエフスキーの純粋なオリジナルと言える。とにかくこういう会話は前代未聞である。では、それが何故なのかを考えてみよう。
ここで行われている会話は、イワンとアリョーシャの父親殺しの件に関するものだ。この父親殺しは複雑怪奇を極めた事件で、それは更に、各々の心理の迷宮にさまよい込むことによって、更に難解になる。
イワンは、上記の会話では、「俺じゃない事くらい、自分でも知っているさ」とすごんでいるのだが、しかし、彼は心理その奥では、自分が間接的に父親殺しに加担したのではないか、と自らを疑っている。そして、その疑いを加速させる、悪魔の助言者として現れるのが私生児スメルジャコフであり、それに対して、天使の、あるいは良心の声として現れるのがアリョーシャである。そして、この二つの会話の間で、イワンの精神は揺れる。彼は、思い悩む。
しかし、ここで、アリョーシャが呼びかけているイワンという存在にもう一度注目して欲しい。僕は妙な事を読者に質問してみたいが、ここで、アリョーシャが話しかけ、呼びかけているのは本当にイワンだろうか?。アリョーシャは本当に、イワンという人間に対して、「あなたじゃありません」と呼びかけているのだろうか?。実を言うと、アリョーシャとスメルジャコフは全く対極の存在であり、そして二人とも、イワンに、逆側から迫るのだが、しかし、この二人が話しかけている相手はイワンその人ではない。そうではなく、それはイワンの中のもう一人の〈イワン〉、内的な〈イワン〉としか呼べない、そういう存在に対してなのである。上記の会話をもう一度見ると、アリョーシャの言葉に対してイワンは、「俺じゃないことくらい知っているさ。うわごとでも言ってるのか?」と返している。このイワンの言葉そのものは嘘ではない。なぜなら、この時、アリョーシャの言葉に反応しているのは内的な〈イワン〉ではないから。この時、アリョーシャの言葉に反応してるのは、イワンの外側のイワンである。だから、彼がこの言葉を言っている時、それは嘘ではない。常識は彼に、彼が殺していない、という事を教える。外側のイワンはその事を知っている。しかし、彼の中のもう一人イワンーーー〈イワン〉は、そうではない。彼は深く懊悩し、そして、自分が殺したのではないか、と疑っている。ここでアリョーシャが話しかけているのは、この内部の方のイワンであって、外的なイワンではないのだ。だからこそ、外的なイワンから拒絶されても、アリョーシャは平気でいられるし、それに自分がそう言う事によって、外的なイワンから拒絶される事が予想されたとしても、どうしてもその事を、内部のイワンに伝えざるを得なかったのだ。ここではイワンという人間は内部と外部との間で、完全に分裂している。そしてその分裂こそが、ドストエフスキーの劇の根本にある。そしてそれはシェイクスピアの時代よりも、はるかに人間の自我というものが面倒で複雑になった、その証拠でもある。
少し、シェイクスピアに戻ってみよう。シェイクスピアの人物も、やはりドストエフスキーのように分裂している。
ハムレットの台詞「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。体内の血管は力に満ち溢れ、ニミアの獅子の筋のごとく、それ、このように張りつめている。」
この文章は無作為に取り出したものだが、こういう文章もシェイクスピアらしいものだ。ここで、「おのれ」と呼ばれているのは当然、ハムレット自身である。シェイクスピア作品においても、やはり登場人物は、ドストエフスキーのそれと同じように二重的な存在である。だが、それはドストエフスキーの登場人物のように、自身の無意識と意識が乖離するような、そういう状態ではない。それはそうではなく、むしろ、自分の理性と感情とが乖離するような仕方において離れているのだ。この場合、「おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。」という台詞はハムレットの自己認識である。このように、シェイクスピアの作品の複合性を作り出しているのは、登場人物おのおのの自己認識である。シェイクスピアと同じようなプロットの作品は世界に山ほどあるだろうが、それがシェイクスピア作品と一線を画すのは、例えば、こういう点である。ある一人の人間が、常に、その感情と理性を分離させ、そして理性が感情を常に的確に捉えるとは、通常ありえない事である。しかしそれを実行すると、どうなるか。こうする事によって、我々はなにかの分離器にかけられたように、人間存在の情熱や魂というものが、僕達の目にくっきりと見て取れるようになるのだ。ここで、シェイクスピアは独特の仕方で人間を解剖しているのだが、これは情念ーー理性との結合、あるいはその矛盾であって、それはドストエフスキーの方法論とは違うものだ。そしてその違いはおそらく、時代、そしてその時代の人間そのものの差に帰せられるだろう。
※
ここまで、シェイクスピアとドストエフスキーの方法論について、軽く触れてきた。この二人については言いたい事がまだまだあるのだが、とりあえずはここまでにしておきたい。僕として将来的に大きなシェイクスピア論、ドストエフスキー論を書いてみたいと思っているが、どうなるかはわからない。
しかし、こうしてこの二人を振り返ると、この二人が、全く、通常のリアリズムを逸脱している事に気付く。彼らはリアリズムとか、自然さとかそういうものを顧慮していない。彼らはただ、彼らが発見した真実を僕達に伝える為には、どんな改変すらも自らに許容した。自然の奥に真実があるが、真実はリアルな現実とは違うので、人々の目には嘘と見える。しかし、これら二人の作品、いや、こうしたとてつもない芸術家というのは、実は逆に僕達に、次のように迫っているのだ。つまり、「何故、真実の方が現実より重たくてはいけないのか?」と。あるものを嘘と言い、間違っているというその僕達の目そのものが、間違っているのではないか、という恐ろしい問いを、大芸術家というのは、必ずその作品の内に潜ませている。僕達が長らく、彼らを社会の外に追放してきたのも、おそらくそういう理由のせいだろう。
現代において、小説というのは沢山あるが、人間存在の解剖法としての小説論ーーというのは余りお目にかかった事はない。僕は思うのだが、世の中に『名文』などはない。あるいはあるかもしれないが、しかし、作家が舌なめずりして『これから名文を一つひねろうか』などと考えて書いたものは全て駄文にきまっている。芸術は、多くの人に考えられているように、趣味的なものではない。それは人生をたのしませる、おもしおかしいものではない。全然違う。それは、厳密に科学的なものであり、人間存在の本質を見破り、そしてそれによって、人生を飛び越えるか、それとも人生を突き破るかする、そういう奇妙なものである。人は今、画面の前に座っていて、自分達を楽しませる何かをだらだらと待っている。しかし、真の芸術はおそらく、画面を飛び出し、そして無数の視聴者の存在を突き破って、前進する、そういう何かだろう。それは芸術を趣味的だと考えている人間達を徹底的にうちのめし、前に進むだろう。また、そうでなければならない。僕の考えでは、ドストエフスキーの『悪霊』は、ロシア革命とそれ以降のソ連世界とを突き破った作品だった。ソ連はこれを発禁処分に課したが、しかし、勝利したのはどちらであったのか。勝利と敗北は多数決では決まらない。例え、一時的にそうだとしても、最終的にはそうでない。真実はいずれ、語られねばならないだろう。そして、そのために、芸術という器はこの世界に存在しているのだ。
そんな所で、シェイクスピアとドストエフスキーに関する、この若干の考察は締める事にしたい。この二人に関してはまだまだ言い足りていないので、機会があればまた書きたい。それでは、また。