35話 ゼロの関係な俺と彼女(後編)
「それじゃあ、実家に戻ってくるわ。できる限り早く帰ってくるから」
「ああ」
「はい。いってらっしゃい」
ティアラの髪を一通り綺麗にした後、タニヤは先ほど言っていたとおり実家の薬屋へと戻って行った。実はあいつの実家は、城からかなり近い場所にあるらしい。そういえば以前、昼頃に帰ってくると言っておきながら早朝に姿を現したことがあったっけ……。
タニヤを見送った後、ティアラは部屋の中を見て回っていた。俺とアレクはその彼女の動向を無言のまま、ただ見守る。何か思い出してくれれば良いんだが……。
部屋をぐるりと一周した後、ティアラは大きな鏡の前で立ち止まった。あの鏡は確か、アレクがやって来た次の日に、俺が部屋まで運びこんだやつだっけ。あの時に模様替えをしたっきり、家具の配置は変えていないな。
次にティアラは、先ほどまで朝食を食べていた木製の丸いテーブルの前に移動し、そっと指先で天板をなぞる。一服する時はいつもこの丸いテーブルを利用していた。俺とアレクの歓迎会をやってくれた日は、テーブルいっぱいに料理を並べてくれていたな。あれは本当に嬉しかった……。
今度は丸いテーブルの傍にある、出窓を見つめる。この外側にマー君が居たらしいな。親の元には帰れたんだろうか。元気でやっているといいんだが。
部屋のほぼ中央に置かれたソファーの前に彼女が移動した時は、俺は少しドキリとしてしまった。甘くて苦い感覚が、俺の胸に広がっていく。俺が初めて彼女を押し倒した場所――。まぁ、タニヤに邪魔されたけれど。
そしてティアラは、本棚の前へ。一ヶ月ほど前に俺が彼女から借りた本は、毎晩必死で読み進めた。正直、文字は小さいし多いしで、頭がクラクラしてしまいそうだった。でも読み終えた後、あの場面は盛り上がったよな、と彼女と話をすることができたのが、何より嬉しかった。しかしその後、もう一冊貸してくれ、とはなっていない。あれを毎日続けるのは俺には無理、という結論に至ったからだ。次は半年後か一年後くらいでいい。
この部屋には、ティアラと俺達が過ごした日々の思い出が、たくさん詰まっている。しかし、彼女はそれらの日々を全て忘れてしまった。俺達だけが覚えているというその事実に、例えようのないほど胸が軋み始める――。
ティアラは自分の身長よりも高い本棚を、しばらくの間ジッと見上げていた。何か思い出せそうなのか? 淡い期待を抱きながら、俺は彼女をただ見つめ続ける。ティアラは本棚に手を伸ばし、一冊の歴史書を手に取ると俺達へと振り返り、口を開いた。
「これは、私が読んでいた本ですか?」
彼女のその言葉に、俺は愕然とした。それすらも覚えていないのか――。
俺は彼女の本を読む姿が好きだった。読む時に伏し目がちになる目、大事そうにページを捲る細い指――。俺とは違う、知的で聡明な姿に惹かれていた。何より、一生懸命な彼女の姿が好きだった。
「そんなに必死に歴史なんか頭に叩き込んで、どうするつもりだ」と、いつだったか俺は頭の悪い質問をティアラにしたことがある。しかし彼女は柔らかい笑みで静かにこう答えた。
「歴史は繰り返す、という言葉があるけれど、私は繰り返すようなことをしたくはない。せっかく先人達がこうして本として残してくれているのだから、その教えをきちんと自分の物にしておきたいの」と。
それなのに、彼女が日々懸命に蓄えた知識も、あっさりと失われてしまっている。それが俺には無性に悔しかった。あんなに毎日努力をしていたのに。本を読むだけではない。様々な場所に赴き、自分の目でしっかりと今の国の姿を見ていたのに。
この小さな身体で、国のことを真剣に考えていたのに――。
「……オレ、泣きそうかもしれん」
俺の隣に佇んでいたアレクが、不意に小さな声でそう呟いた。アレクの顔を見ると、その顔はいつものように無の表情だった。しかし今の彼女の言葉通り、俺にはこのまま泣き出してしまいそうに見えた。
俺だけじゃない。アレクもティアラの様子に胸を痛めている――。
「俺もだ……」
俺はティアラに視線を戻し、アレクの言葉に静かに同意した。
昼になった。
アレクは昼食を取るため、兵士用の食堂に向かった。俺は少し休憩をしようとティアラに促し、ソファーに背を預ける。ティアラはその俺の隣に腰掛け、ピタリと身体をくっ付けてきた。いつも並んで座る時は、拳一つ分は開けるのに……。いつもと違うティアラの行動に、彼女と触れている腕だけでなく、身体全体の体温も心なしか上がってしまう。
そんな上昇した体温をどうやって下げようかと視線を彷徨わせて思案していると、ティアラは少し俯きながらおもむろに口を開いた。
「マティウス、ごめんなさい。私、あなたのことを思い出そうとしているけれど、まだ何も思い出せないです……」
「別に謝らなくてもいい」
そう。彼女が罪悪感を胸に抱く必要はない。誰も悪くなんてないんだ。ただ、ほんのちょっと運が悪かった。それだけの話だ。
「でも、これだけはわかるんです。マティウスは他のどんな人より……私にとって、本当に大切な人だったんだって」
そう言って破顔するティアラ。あまりにも屈託のない笑顔で、そして恥じらいもなく彼女の口から紡がれたその言葉に、俺の顔は瞬時に沸騰してしまった。
恥ずかしがり屋のティアラから照れを取ってしまうと、こんなにも恐ろしい破壊力になってしまうのか……。やばい。俺の心臓がもたないぞコレ……。
いや、そんなことより。
もしかしたら今の彼女の言葉は、俺が聞いてはいけないものだったのかもしれない。普段恥ずかしがり屋の彼女が、心の奥底に大事に仕舞っていた想いだったのかもしれない。何せ俺に「好き」という言葉を伝えるのに、二ヶ月もかかった彼女だ。だが不可抗力とはいえ、俺はその想いを聞いてしまった。
もしこのまま記憶が戻らないのなら、俺は彼女の傍から離れ、ただの王女と護衛の関係に戻ることも正直考えていた。
いつかは離れないといけなくなるのなら、いっそこのまま――。
しかしティアラが俺のことをそういうふうに想ってくれていたと知ってしまった以上、その考えはもう綺麗になくなった。
思い出は、またこれから作っていけばいい。別れの時がくるとわかっていても、俺はまだ、彼女と一緒の時を過ごしていきたい……。
彼女から俺との思い出は消えてしまった。それでも今、俺は彼女の笑顔に癒され、そして心は満たされる。
記憶がなくなっても、ティアラはティアラなんだ――。
それが何だか無性に嬉しくて、でもやっぱり切なくて。
このまま二度と記憶が戻ることがなかったら。陛下の反応次第では、もしかしたら彼女は――。
……叫びたかった。意味もなく叫んでしまいたかった。頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。心もぐちゃぐちゃになってしまう前に、俺は彼女の身体を強く抱き締めていた。
「あの……?」
いつもの彼女なら、きっと今頃真っ赤になっている。だが、今のティアラの顔色は、おそらく全然変わってはいない。彼女の顔は俺からは見えないが、今の短い一言だけでそれがわかってしまった。
「寝たら、思い出すか?」
先ほど彼女が言ったセリフを利用して、俺は心の中に生まれた感情をそのままぶつける。この聞き方は、凄く卑怯かもしれない。彼女がどんな返答をしても、逃げ道はないのだから。
「……わかりません」
戸惑いの混じった声ではあったが、拒否はされていない――。
俺はティアラを抱き締めた状態のまま、ソファーにそっと押し倒した。桃色の髪が俺の腕の中でふわりと横に広がる。ティアラの目は少しだけ丸くなってはいたが、突然の俺のその行動に狼狽する素振りを見せる気配は、全くと言っていいほどない。その彼女の態度が、俺の心臓に刺すような痛みを与えた。
新たな思い出を作っていけばいいと、たった今そう決心したはずなのに――。
まだ心のどこかで、『昨日までの彼女』を諦めきれていない自分がいる。
会いたい。
やっぱり、会いたい。
すぐに照れて、頬を林檎のように染め上げて、それでも、恥ずかしがりながらも俺を受け入れてくれた、あのティアラに会いたい。
寝て思い出してくれるのなら。それで今までのことを思い出してくれるのなら――。
「いたっ!?」
気付いたら俺は彼女の首筋に歯を立てていた。彼女の悲鳴も聞こえないフリをして、そしてそのまま――。
……動けなかった。キスをして、愛撫して、そして彼女と繋がりたかったのに、指先一つ動かすことができない。
俺の顔に――頬に温かい感触が這うようにして伝っていく。それが自分の目から出た液体だと理解するのに、随分と時間を要してしまった。
お互いに今、顔は見えない。でもティアラは、俺が泣いていることに気付いたのだろう。
「ごめんなさい……」
彼女の声は震えていた。そして俺も気付いた。ティアラも今、泣いている。
ティアラの謝罪の言葉にも、俺は何も返すことができない。口を開くと言葉ではなく、嗚咽が洩れてしまいそうだったから。だから返事の代わりに、彼女の小さな手を強く握り締めた。
謝る必要はないんだと、俺の心が弱いだけなんだと。
心の中でそう強く思いながら、俺はティアラに覆い被さったまま、ただ涙が止まってくれるのを待った。
その後お互いにずっと無言のまま、時間だけが過ぎ去っていった。ひとしきり泣いたので、ある程度心は落ち着きを取り戻せた。俺は歯形が残ってしまった彼女の首筋を、そっと撫でながら呟く。
「ごめんな……」
俺の謝罪に、ふるふると首を横に振って応えるティアラ。まだ少し鼻は赤いが、彼女も既に涙は乾いていた。そこで俺はふとあることを思い出す。
そろそろアレクの昼食時間が終わる頃だ。こんな状況を見られてしまうのは、俺の精神衛生上よろしくない。今日は未遂だから余計に。
密着していたティアラから離れようと、俺は両手をソファーに付き――。
そのタイミングで扉は開かれてしまった。
「…………」
「…………」
いつかタニヤに邪魔をされた時と全く同じ体勢で、俺は部屋に入ってきた黒髪の美少年と、金髪侍女の顔を交互に見つめる。自分の顔が瞬時に青褪めていくのがわかった。
「……邪魔したな」
「ど、どうぞごゆっくり~……」
「ちょっと待ってくださいいいいッ!? 違うから! もう終わったからッ!」
慌ててソファーから飛び降り、二人に縋るようにしがみ付く俺。しかしなぜか二人は俺の必死の訴えに目を丸くした。
「え?」
「もう終わったって……。オレが飯を食っている間に全て終わらせるとか、いくら何でも早すぎるだろお前」
「ちょっ!? ナニか激しく勘違いしていないかそれ!? 俺が言ったのはそういう意味じゃねーから!」
「まぁ、認めたくはない気持ちはわかる」
「だから違うっつーの! それよりタニヤ! 戻ってきたってことは、何か使えそうな薬は見つけてきたんだろうな!?」
このまま俺の下の方の話題を続けられるのはたまらない。俺はタニヤを指差して強引に話題を転換する。
「ええ、もちろんよ。これを見て!」
タニヤは得意満面な顔で、エプロンのポケットから小瓶を取り出す。濃いネズミ色をした液体がその中には詰められていた。いや、この色は「ドブを掬って詰めました」と言われた方が納得してしまうかもしれない。
「ええと……。非常に怪しい色をしているんですが、それは……」
「『忘却』の状態異常は知っている?」
「あぁ。魔法を使う奴が、一時的に魔法を全て忘れてしまうってやつだろ」
魔獣の中には、人間以上に高い知能と知識を持っている奴がいる。そいつらが稀に魔法を使う人間に対し、そんな厄介な攻撃を仕掛けてくることがあるという。まぁ、そういう魔獣はこの国の周辺には生息していないし、そもそも魔法を使う奴自体がこの国には少ないので、この辺りの人間にはあまり馴染みのない状態異常ではあるのだが。
「そう。これはその『忘却』の異常を回復させる薬。他所の国で買い付けていた物がたまたま実家に置いてあったから、こっそり持ってきたの。おそらくまた何か研究しようとしていたんでしょうけど、まぁ今は非常事態だし許してくれるでしょ」
本当に怪しいなお前の薬屋……。いつか摘発されるんではないかといらん心配をしてしまう。
「で、この『忘却』を治す薬なんだけど、実はブラディアル国でしか作られていないの。どうしてかわかる?」
「いや……わからん」
「『時』の女神の加護を得られないと、完成しないからなの」
その名前を聞いた俺は、思わず目を見開いてしまった。
ブラディアル国で祀られている、三人の女神の内の一人、『時』の女神――。その名の通り、時間に干渉をすることができる女神だと言われている。
「『忘却』の異常は、基本的に『頭の中の時間だけを少し戻す』ことで回復させているわけ」
そうだったのか。それは初耳だ。頭の中の時間だけを少し戻す、か……。
「てことは――」
「うん。試してみる価値はあると思わない?」
「そうだな……」
「というわけで姫様」
「は、はいっ」
タニヤはそこで小瓶の栓を抜く。きゅぽんっと小気味良い音を立てて抜かれた栓は、タニヤの隣に佇んでいたアレクに手渡された。タニヤはその小瓶をティアラに渡すことなく――。
「ちぇすとおおおおおおぉぉッ!」
いきなりティアラに駆け寄り、大きな掛け声と共に彼女の口に小瓶の先もろとも薬を捩じ込んだ!
「ふぎゅっ!?」
無理矢理怪しい色の薬を飲まされたティアラは、俺が聞いたことのない可哀相な声を上げると、目を白黒させてぱたり……とソファーの上に倒れてしまった!
「ティアラああああああッ!?」
と、トドメを刺したーッ!? この侍女ついにやりやがった! 俺がついていながら何てことだああああ!?
「お、お前っ!? ティアラに何しやがるんだ!? あんなドブみたいな色の物体を無理矢理飲ませやがって!」
「だからこそよ。見た目の印象そのままに、この薬かなり不味いのよねぇ。だから他人が後押ししてあげた方がいいかなーと思って」
「後押しじゃなくて正面からぶん殴るの間違いだろ!? 何だよあの掛け声!?」
「私の良心を気合いで押さえ込んだ声よ」
嘘だ。さっきのお前にはそんなモノは微塵も感じられなかった!
「今はそれより姫様だろ」
アレクの冷静な一言で我に返る俺。確かにそうだ。ティアラはどうなったんだ!?
「あ、あれ? 私……」
ソファーに倒れていたティアラの目が開いた! 良かった。生きていた!
いや、問題は記憶の方だ。果たして戻っているのかどうか――。
「ティアラ」
「ふぇ……なぁに?」
俺はソファーの前に膝を付き、まだどこか虚ろな目をしているティアラを真正面から見据える。そして彼女の唇に、少しだけ自分の唇を重ねた。
「なっ!? えっ!? はっ!?」
顔を真っ赤にして、ソファーの上で手と足を無意味にパタパタとさせるティアラ。
おお…………。
おおおおぉぉ……。
この反応は間違いない。いつもの、あの恥ずかしがり屋のティアラだ!
「おかえりティアラああああぁぁッ!」
感激のあまり、思わず彼女を抱き締める俺。ティアラは「ぴぎゃっ!?」という謎の鳴き声を発した後、顔から湯気を出して固まってしまった。
「うん、これは姫様だな」
「間違いなく姫様ね」
俺の背後から、二人の妙に納得した声が聞こえたのだった。
※ ※ ※
楽しくて、騒がしくて、時々切なくなって。
ティアラと俺、そしてアレクとタニヤ。
この四人で過ごす日々がもうしばらくは続くのだろうと、俺は信じて疑わなかった――。




