34話 ゼロの関係な俺と彼女(前編)
冗談だろ? これは、悪い冗談なんだろ? そうでないなら夢だ。きっと悪い夢なんだ。
頼むから誰か、そう言ってくれ――。
頭の中が真っ白になった。動けなかった。感覚がなくなった手足は、まるで他人の身体のようで。
視覚から送られてくる情報が信じられなくて、一瞬だが俺の脳は考えることをやめてしまった――。
いつものように笑顔でおはよう、と言ってくれるはずだった彼女は、今、柔らかな絨毯の上で横向きに倒れている。その桃色の髪の後ろには、鮮やかさを失った乾いた赤が付着していた。
ティアラに何があったのかはわからない。わかるのは、彼女は頭から血を流して倒れている、ということだけ。
時が止まったように動けないでいた俺達三人だったが、突然弾かれたようにタニヤがティアラの元へと走り寄った。
「姫様!」
ティアラの傍らに膝を付き、顔を青くしながらタニヤが彼女を呼ぶ。今にも泣き出してしまいそうなタニヤの顔を見て、ようやく俺の全身を縛り付けていた見えない鎖が断ち切れた。恐る恐る、部屋の中へ足を踏み出す。
そこでティアラの目がゆっくりと開かれた。遠目で見ると死んでしまっていたようにしか見えなかったので、俺は心の底から安堵の息を吐く。絶望で覆われていた心に、瞬く間に光が射した。
良かった。本当に良かった……。生きている。彼女は生きている。床にへたり込んでしまいそうだったのに辛うじてそれを堪えたのは、ティアラが声を発したからだ。
「わたし……?」
「動いてはいけません、姫様。そのままで」
手を付いて起き上がろうとするティアラを、すかさずアレクが制した。頭を打っているのだ。確かにここは下手に動かすべきではないだろう。
「マティウス」
アレクが俺の方を振り返り、静かに呼ぶ。それだけで、俺はアレクが言わんとしていることを理解した。
「……わかった」
俺はタニヤの横に膝を付き、血で絨毯と癒着していたティアラの髪を静かに剥がす。この血の乾燥具合からして、怪我を負ってからかなりの時間が経過しているとわかる。
俺はティアラの身体の下にそっと手を入れ、できるだけ平行になるように抱き上げた。そのまま彼女を寝室へと運び、天蓋付きのベッドの上に優しく下ろす。
「吐き気を感じたり、気分が悪いとかはありますか?」
ベッド脇に膝を付いたタニヤはティアラの手を握り、優しい口調で彼女に尋ねる。
「頭の後ろがちょっとズキズキするけれど、それ以外には特に感じない、かな?」
「そうですか。しばらくはそのまま安静になさっててください」
「は、はい。わかりました。でも……」
「どうされました? 何か気になることがあれば、何でもお申し付けください」
「あの、あなたたちは、だれですか……?」
ティアラの放った一言に、俺達はまた凍り付いたのだった。
窓はしっかりと施錠されている。室内も荒らされた形跡はない。俺達が来た時、扉にもちゃんと鍵がかかっていた。つまり、誰かに襲われたわけではない。
俺達がティアラの部屋に入れたのは、タニヤが合鍵を持っていたからだ。いつまで経っても開かない扉に嫌な予感はしていたのだが、その予感通りの事態となっていたとは――。
「ここだな」
部屋の中を調べていたアレクが、ティアラが倒れていたテーブル脇にしゃがみながら呟いた。俺とタニヤはアレクの後ろに回り、彼女の視線が指す方を見る。
ティアラがいつも勉強をするのに利用している、重厚な長方形のテーブル。その四隅の一角に、僅かな血が付着していた。アレクは視線をテーブルの後ろに設置された本棚へと移し、おもむろに口を開いた。
「おそらく姫様は、昨晩オレ達が部屋を出た後、椅子に上がって本を取り出すか仕舞うかしようとしていたのだろう。しかしバランスを崩し、椅子から落ちてしまった。その際に運悪く、このテーブルの角に頭をぶつけてしまわれたのだろうな」
確かに小柄な彼女は、本棚の上の方に手は届かない。だからいつもは俺が手を貸していた。それは彼女が俺を頼ってくれる、数少ない機会でもある。そんな些細なことでさえ、俺にとっては嬉しくて仕方がなかった。
「部屋を出る前に、いつものように俺に言ってくれれば良かったのに」
「姫様はお優しいから、毎回お前に頼むのも悪いと思ったのかもしれん。まぁ、単に言うのを忘れていただけ、という線もあるだろうが」
俺は思わずギリッと奥歯を強く噛む。昨晩もう少し気を配っておくべきだった。確かに昨日ティアラは俺に本を取ってくれと頼んできたが、仕舞ってくれとは言われていなかった。
「過ぎたことをグチグチ言っても何にもならないわ。今はこれからのことを考えなきゃ。とりあえず、陛下には知らせた方が良いと思うのだけれど」
タニヤの冷静な一言に、ヒートアップしそうだった俺の心はすぐに冷却された。普段はいい加減なくせに、こういう時は一番物事を客観的に見ることができるのは、やはり一番年上だからだろうか。
「陛下が帰ってくるのは、今日の夜だと聞いている……。その間何としても、オレ達以外の人間には悟られないようにしないと」
「そうだな……」
タイミング悪く、陛下は他国での会談に赴いていて不在だ。
医者に見てもらおう、と誰も言わないのは、ティアラが王女だからに他ならない。
彼女はもう十六歳。いつでも婚姻が可能な年齢だ。その彼女が記憶喪失になってしまったと知られたら――。王という地位を狙っている奴らに、たちまちティアラはある事ない事を吹き込まれ、利用されてしまうことだろう。
「幸い、今日と明日は姫様に視察や面会の予定もない。その間に何とかするしかないだろうな」
「私、後で実家に帰ってみる。使えそうな薬を探してくるわ」
タニヤの実家の薬屋か……。色々と怪しい気もするが、ここは手段を選んでいる場合ではないな。俺とアレクはタニヤのその言葉に黙って頷く。その時だった。
どたんっ――。
寝室の方から聞こえてきた低い音に、慌てて俺達はそちらに向かう。そこにはベッド脇の床にへたり込んだまま、あたたた……と腰を擦るティアラの姿があった。
「だ、大丈夫ですか姫様!?」
「はい。ごめんなさい。下りようとしたら足がちょっともつれてしまって……」
「頭を打たれたのです。もう少し安静にしていただかないと……」
「私は、この国の王女なのですよね?」
「は、はい」
タニヤがたじろいでしまったのは、ティアラの表情が鋭いものに変わったからだろう。見ていた俺も、ティアラのその表情の変化に思わず小さく息を呑んでしまったほどだ。
「それなら早く記憶を取り戻さないと、たくさんの方にご迷惑をかけてしまう気がします。だから、思い出すきっかけを探すため、部屋の中を見て回りたいのです」
ティアラの言葉に、俺達は何も言うことがきなかった。おそらくティアラの深層部分に、王女としての強い責任感みたいなものが残っているのだろう。
ティアラはそこでベッドに手を伸ばし、弾力のある彼女の枕を手に取り、口を開いた。
「これは、枕ですよね?」
「あ、あぁ。そうだけど……」
枕を置いた後、今度はベッドの端の部分に手を触れながら彼女は続ける。
「そしてこれはベッド」
「……どうかしたのか?」
「こういう『物』の名前はわかるんです。考えなくても、勝手に頭に浮かんでくる。でも、ごめんなさい……。どうしても、あなた達のお名前は思い出せないのです。そして、自分の名前も……」
ティアラは下を向いたまま、唇を小さく噛む。
思い出したいのに思い出せない――。俺もそういう経験はしたことはある。「えーと、あれ。あれの名前って何だっけ。あの長いやつ」という日常生活に支障のない程度のものだが。
しかしティアラの場合は、そんな些細なものとは比べ物にならない。俺が想像している以上に、彼女は今、歯痒い思いをしているのだろう。
「なるほど……。要するに人物などの思い出に関する記憶が、欠如してしまっているということか」
アレクは顎に片手を置き、冷静に分析をする。
ティアラの前に屈んでいたタニヤはそこで小さく笑顔を作ると、自分の胸に手を置いた。
「姫様。私はタニヤです。そしてこっちがアレク。そして、マティウス」
「タニヤ、アレク、マティウス……」
ティアラは口の中で転がすように、俺達の顔を見ながら、小さな声で名前を復唱する。
「それと姫様のお名前は、ティアラです」
「ティアラ。私の名前は、ティアラ……」
そう言われてもしっくりこないのか、ティアラの顔は晴れない。そんな彼女の背に手を置き、タニヤは微笑みを絶やさぬまま続けた。
「姫様。まずはお着替えをして、あちらの部屋で朝食にしましょう。部屋の中を見て回るのは、その後でもよろしいのではないですか?」
「おい、タニヤ。そんな悠長にしている場合では――」
「もしかしたら食べて飲んで話をしている内に、思い出すかもしれないでしょ?」
まぁ、それも一理あるかもしれない。記憶という不定形で不確かなもの。何がきっかけで思い出すかわからないんだ。ここはタニヤの言う通り、茶でも飲んで一旦俺達も落ち着いてみるか。
「ということでお着替えの時間です。マティウス君はさっさと寝室から退場しましょう」
「へいへい」
クローゼットに向かいながら、タニヤは俺に退場宣告をしたのだった。
「おいしい」
白のカップを口に運んだ後、ティアラは僅かに顔を上気させながらポツリと声を洩らした。
丸いテーブルを囲んで、ティアラは少し遅めの朝食を、俺達はタニヤが淹れた紅茶で一服をしているところだった。
「それは姫様が一番好きな紅茶なのですよ」
「そうなんですか。うん、確かにこの味好きです」
もう一口コクリと紅茶を飲んだところで、ティアラはアレクの顔をじっと見つめ始める。
「あの」
「ん?」
「アレクさんは女性……ですよね?」
「……はい」
アレクが女だということも覚えていない……。今のティアラの目には、アレクはどういうふうに映っているのだろうか。やはり格好良く見えているのだろうか、と考えていると、ティアラは俺の方へと顔を向けていた。
「あの、マティウスさん」
「マティウスでいい」
「あ、はい」
「で、何だ?」
「マティウスと私は、夫婦なのですか?」
無表情のまま、口に含んでいた紅茶をブシャアッと盛大に噴き出すアレク。俺は椅子ごとひっくり返ってしまった。タニヤに至っては笑いを堪えているのか、このままひきつけを起こしかねないほど蹲って震えている。ティアラはそんな俺達の態度に小首を傾げた。
「違うんですか?」
「ふ、夫婦ではないな。ってかなぜそう思ったんだ」
額に一筋の汗が垂れるのを実感しながら再び椅子に座り直した俺は、ティアラが突拍子もない言葉を口にした理由を尋ねる。
「アレクさんとタニヤさんは女性ですから、私のお手伝いさんなのかな、と思ったんです。でもマティウスは男性のお手伝いさんという雰囲気でもないし。けれど私と常に一緒に過ごしていたようですので、そうなのかなぁと」
「そ、そうか。残念だが違う。俺とアレクはティアラの護衛なんだ。だがイイ線はいってるぞ。その、一応俺達は付き合っていたんだ……」
「あ、やっぱりそうだったんですね」
ティアラは両手をパンと合わせ、心なしか嬉しそうに俺の言葉に納得する。
何がやっぱりなのかはわからないが、あまり深く追求すると色々と自爆してしまいそうなのでやめておこう。俺は気持ちを落ち着かせるため、紅茶を口に運び――。
「肉体関係はあったのですか?」
ブシューッと、今度は俺が盛大に紅茶を噴き出してしまった。
「ちょちょちょちょちょっとそそそそそそれは――」
普段のティアラならば絶対に口にしないであろう言葉に俺は動揺しまくってしまい、ネジの外れたおもちゃのようにしか喋ることができない。
「はい。ありました」
「ありましたよ姫様」
「お前らああああぁぁぁぁッ!?」
思わず椅子から立ち上がり二人に抗議する俺。羞恥で泣きたくなったのは初めてかもしれない……。
「そうなのですか。えっと、それじゃあ――はい」
ティアラは椅子から立ち上がると、いきなりワンピースの裾をぺろりと捲り上げ、俺に可愛らしい白色の下着を見せ付けてくる。俺の鼻から瞬時に鮮血が飛び出てくるのがわかった。
「いっいいいいきなり何やってんだああああッ!?」
「いえ、そういう関係だったのでしたら、寝たら思い出すかなあ? と思いまして」
「記憶と共に常識と恥じらいも忘れたらだめええええぇぇッ!?」
いきなりとんでもないことを口にしたティアラに、俺は鼻を押さえながら絶叫する。
これはアレか。もしかしなくても俺は誘われているのか。まさかティアラの方から誘ってくる日がくるなんて、夢にも思っていなかった。だがこの状況でそのまま彼女の誘いに乗ってしまうのは、人間的に終わってしまう気がする……。確かに俺は健全な十八歳の男だが、良心までは桃色に染まってはいないっ。
「マティウス君、散々姫様とイヤンなことをやっておきながら、今さら下着を見ただけで鼻血とか」
「心の準備が全くできていないのに、こんなふうに見せられたら動揺もするっての! とにかくすぐに下ろしなさい! 女の子が無闇に下着を見せたらダメですッ!」
「はい……ごめんなさい」
俺の言うことを素直に聞き、しゅん、と俯き落ち込むティアラ。何というか、いつもと勝手が違いすぎるので非常にやりヅライ。これじゃあ恋人というより、常識の欠落した子供を相手にしているみたいじゃないか……。俺はティアラの父親じゃないんだぞ……。
「あ、それじゃあ一緒にお風呂に入りましょうか?」
再びティアラの口から出た爆弾発言に、俺は窓を突き破ってお空にフライアウェイしてしまうところだった。何が「それじゃあ」なのかさっぱり意味がわからないんですけどッ!?
「だから何でそうなるんだあぁっ!? そもそも俺とティアラはまだ一緒に風呂に入ったことはない!」
「あれ。まだだったんだ」
「とっくに入っていると思っていたな」
白々しい合いの手を入れてくるタニヤとアレクをキッと睨む俺。お前らも知っているだろうが! ティアラはいつも俺達が部屋を出た後に入浴をしていると!
「そうだったのですか。あの、髪に血が付いてパリパリしているから、洗いたいなぁと思ったのですけど、後ろだから私からはよく見えなくて。だから一緒に入って洗って欲しかったんです。それでもだめですか?」
そこで捨てられた子犬のような目を俺に向けてくるティアラ。
……これは何の試練ですか? もしかして俺の健全度を測るテストですか? っつーかティアラはそんなに俺に襲ってほしいの? 実は日頃から俺と一緒に風呂に入りたいとか思っていたの?
よし……。ここまでお願いされているのに無碍にするのは、彼氏としてダメだよな。ここは俺が折れて、彼女の髪を綺麗にしてあげるべきだよな。ついでに朝からスッキリするってのも悪くないかもなッ。
「非常に嬉しそうな顔をしているところ悪いけど、姫様の髪は私が水とタオルで何とかするから。君に任せると、姫様が頭に怪我をしていることを忘れて、傷口まで乱暴に扱いそうだし」
「…………」
タニヤの言うことに何も言い返せない俺。あながちその予想は間違っていないかもしれないと思ってしまったからだ。
がっかりしてないぞ。別に俺はがっかりなんかしていないぞ。
……ちくしょう……。




