24話 彼女との距離に悩む俺▼
城の一階にある、兵士用の食堂。五十人程度が座れるその食堂で、俺とアレクは並んで昼食を食べていた。
今日ティアラは陛下と二人で昼食を取るとかで、俺達は席を外しているのだ。陛下にも専用の護衛と毒見役がいるから問題ないよと、俺達の主君から束の間の自由時間が与えられたので、こうして飯を食っているというわけだ。
いつもはアレクと交代で昼食の時間を取ってきたから、こうやって二人並んで飯を食うのは初めてなんだよな。ちょっと新鮮な気分。
「で、お前達、どこまで進んだんだ?」
ぶぺ。
何の脈絡もなくいきなりそう振ってきたアレクの言葉に驚き、俺は口に入れたばかりのポタージュを噴き出してしまった。
「食べ物を粗末にするのは良くないぞ。それに口に入れた物を出すのはマナー違反だ」
整った顔を全く崩すことなくそう言い放つ同僚に、俺はすぐさま反論する。
「お前が原因だろうが!?」
「で、どうなんだ?」
アレクは俺の抗議を無視し、有無を言わさぬ雰囲気で詰め寄ってくる。くそ、やっぱりこいつとの二人だけの会話は苦手だ。卑怯なり、無表情の破壊力と強制力。
「ま、まだ、何も……」
「何も、だと!?」
俺の返答にアレクは無表情を崩し、紅色の目を見開きながら続ける。
「付き合い始めてそろそろ二ヶ月は経とうとしているのに、何も、だと!?」
「だ、だってお前らがいるし!?」
「大丈夫だ。オレもタニヤもじっくりと見ていてやるから、遠慮はするな」
「だからそれが嫌なんだっつーの!」
そりゃ俺だって念願叶ってようやく結ばれた可愛い初恋の彼女と、あんなことやこんなことを存分にやりてーよ!? 年頃の男なんだし!? だが俺達を取り巻く環境がその機会を与えてはくれなかったのだ。俺がちょっと日和っているってのも否定はしないけどさ……。それでもやっぱり見られるのは嫌じゃん……。
「よく考えろ。人の目を盗みこっそりと触れ合うことで、二人の愛がより燃え盛ると。美味しいシチュエーションだとは思わないかね?」
「かね? じゃねーよ! いつもと口調変わってんじゃねーか。ていうかそもそもお前がその『こっそり』の隙を与えてくれねーんだろうが!」
こいつも王女の護衛に選ばれただけあって、佇まいどころか気配にも全く隙がない。少しでも俺が動こうものなら即座に俺を目で追ってくる、そういう奴なのだ、アレクは。
「気付いていたのか」
「そりゃ気付くわ。俺だって護衛なんだから見くびるなよ」
「ふむ。ところで姫様からは何も催促されてはいないのか?」
「あいつが自分からそういうことを言うと思うか?」
「それもそうだな……。でも手を握る程度なら、姫様でもできると思うのだが――」
そう言われてしまうと、俺も何も言い返せない。
無言でポタージュの残りを飲み干す俺を一瞥したあと、アレクは正面に向き直り、小さく呟いた。
「お前達の今の状況、付き合っているとは言わないんじゃないのか?」
わざと見ないようにしていたものを容赦なく晒すアレクの言葉に、俺は凍り付く。
確かに二ヶ月前のあの時、ティアラは俺の告白を「ありがとう」と受け入れてくれた。
…………だが、よく考えたらそれだけだった。
俺は今まで一度も彼女の口から「好き」という言葉を聞いていないし、恋人らしいことをしてみたいとお願いされたこともない。俺が何かを期待して彼女に熱い視線を送っても、ニコリと軽く笑顔を返してくれるだけ。
ティアラは優しいから、俺の告白を断れなかっただけじゃないのか? ティアラの俺に対する気持ちは、アレクやタニヤに対する気持ちとほとんど変わらないものじゃないのか? そうでないと、この二ヶ月停滞したまま、なんて事態になってはいないはずだ。
頭の隅にずっと存在していたその小さな疑問が、この時俺の中で確信に変わった。刹那、心臓を鷲掴みにされたような痛みが俺の胸を襲う。久々の感覚だが、当然嬉しくはない。
結局俺は、告白を受け入れてもらえて一人で浮かれていただけってことか……。
今の二人の距離感をはっきりと認識してしまった俺の心に、失恋したと勘違いしたいつかの痛みよりも、ずっと痛い棘が突き刺さる。
「まぁ、そういうことなら早速タニヤに言って、この後お前と姫様の時間を――っておい、どうした? 顔色が悪いぞ」
「アレク、俺――」
「マティウス君、アレク! すぐに来てちょうだい!」
俺の言葉は突如食堂に現れたタニヤによって遮られた。いつもの能天気で緩い表情はそこにはない。どこか緊迫した彼女の様子に俺は思わず息を呑む。タニヤはここまで走ってきたらしく、息も絶え絶えで額には汗が滲んでいた。
「どうしたんだ?」
「姫様が倒れたのよ!」
「なっ――!?」
タニヤの言葉に、俺もアレクも咄嗟に立ち上がっていた。
「アレクはすぐに城の専属医の所へ向かって知らせてちょうだい。私は水やタオルとか細々したものを用意しに行くから。マティウス君は執務室へ。今姫様は陛下が見てくださっているから、部屋まで運んで欲しいの」
「わかった」
「了解」
返事と同時に俺達は食堂を飛び出した。
俺は今、ティアラを抱きかかえたまま城の階段を上っている。思わぬ形で彼女の体に触れることになってしまったが、くだらない下心が吹っ飛ぶほどティアラの全身は熱く、医者でない俺でもヤバイ状態というのは容易に理解できた。
俺の腕の中で、ティアラはさっきからうわ言のように小さな声で「ごめんね」と繰り返している。
「何で謝るんだ?」
何に対する謝罪なのか俺にはよくわからなかったので聞いてみるが、返事の代わりにまた「ごめんね」という言葉が返ってくるだけだった。どうやら熱のせいで意識が朦朧としているらしい。
『あなたの気持ちに応えてあげられなくて、ごめんね』
違うとわかっていても、もしかしたらそういう意味なのかもしれない、というネガティブな考えが過ぎり、俺は慌てて頭を振った。と、階段を上りきったところで、ティアラが弱々しく俺の胸元の服を握ってきた。こんな些細な仕草でも、俺の心臓はまだ大きく跳ねる。普通の恋人なら、この程度の触れ合いはとっくに慣れている頃合いなのだろうか。
「私……重いのに、ごめんね……」
何だ、そんなことか……。想像と違う返事に、俺は心から安堵した。
「重くない。むしろ軽いから気にするなって」
冗談ではなく、本気でティアラは軽い。以前巨大ネコの口の中から脱出した時も感じたんだが、おそらく彼女、俺の半分も体重ないんじゃなかろうか。いくら小柄とはいえ、軽すぎて心配になるほどだ。
ティアラはそれっきり黙ってしまった。代わりに短い呼吸を口で繰り返し始めたので、俺は歩くペースを上げた。
城の専属医が言うには、高熱が出てはいるがただの風邪らしい。だが今日一日は絶対安静の措置を取るようにと、俺達に告げて部屋を出て行った。
ティアラは部屋に到着したばかりの頃は苦しそうな呼吸を繰り返していたが、薬を飲んだことで落ち着いたのか、今は穏やかな寝息を立てている。
俺は彼女のベッドの端に静かに腰を下ろすと、小さく息を吐き出して下を向く。こんな時何もできない自分がもどかしい。ちなみに今アレクは陛下に報告をしに、タニヤはティアラに食べさせる滋養食を食堂に取りに行っている。
と、僅かにシーツの擦れる音が鼓膜を通り抜ける。もぞもぞと動く気配に顔を上げると、ティアラの目が僅かに開いていた。
「そこに座っているの……マティウス……?」
いつもの鈴音のような澄んだ声とは程遠い、弱々しく掠れた声。まだ本調子でないことは火を見るより明らかだ。
「まだ寝とけ」
俺は彼女の枕元まで移動し、床に膝を付く。そして極力感情を廃した声で告げながら、ティアラの柔らかい髪をそっと撫でた。
「どう……したの? 元気……ないの……?」
言葉を途切れさせながらも、ティアラは半分閉じた瞼で俺を心配そうに見つめてくる。
やっぱり誤魔化せないか……。彼女は他人の恋愛感情に関してこそ鈍いものの、こういう人の心の機微に関しては、時折凄く敏感になることがある。
こんな状態なのに、ティアラは自分のことより俺を心配してくれる。だがその優しさが、今の俺には痛かった。
「元気がないのは、お前の方だろ……」
「私は、お薬飲んだから……もう、だいじょ――」
彼女の言葉が途切れた理由。それは俺が塞いだから。
……口を、口で。
ムードもへったくれもないが、これが俺達の初めてのキスだった。
熱で赤かったティアラの顔はさらに赤みを増し、半分閉じていた瞳は大きく見開かれる。俺は彼女のその表情をあえて見ないために、瞼を閉じて彼女の柔らかな唇に神経を集中させた。
俺、最低かもしれない。でも我慢できなかった。色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、気が狂いそうだったんだ。いや、もう狂っているか?
彼女の少し乾燥していた唇を湿らせながら、柔らかくて温かい感触を堪能する。
時間にしてはおそらく短く、でも感覚としては長い――そんな一定の時間が過ぎた頃、俺は彼女から顔を離した。
「かっ、風邪、う、うつっちゃう、よ……」
ティアラは真っ赤になりながら、今にも消え入りそうな声で俺に言う。彼女の目の端に光る液体が見えるのは、嫌だったからじゃなくて羞恥から溢れたものだと思いたい。
「大丈夫。俺、馬鹿だから。ほら、馬鹿は風邪ひかないって言うじゃん」
冗談ぽく言ったはずの俺のセリフは、しかし自嘲混じりのものになってしまっていた。
……どうも俺、さっきから誤魔化すのが上手くいっていないな。ティアラが俺のその様子に気付かないわけがない。案の定、彼女は即座に真剣な表情になる。
「マティウスは、馬鹿じゃないよ……」
「馬鹿だよ。俺はティアラみたいに頭が良くないから、本を読んだりとか無理だ。政治のこともてんでわからないし、教養もない。アレクやタニヤの方がよっぽど物事を知っている。だから俺は――」
――お前と、吊り合っていない――。
喉まで出かかったその言葉だけは、ギリギリのところで呑みこんだ。言ってしまったら、俺とティアラを繋ぎとめていた細い糸が、プツリと切れてしまう気がしたから。
俯いた俺の耳元で、ティアラは弱々しい声でゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「頭の良い人っていうのはね、知識がたくさんある人のことだけを、いうわけじゃないと思うの……」
「…………」
俺は何をするでもなく、俯いたままただ彼女の言葉に耳を傾ける。
「何をしたら他人が傷付くのか、そして喜ぶのか……。そういうことを、ちゃんと考えることができる人が、本当に頭の良い人だと思うの」
そこでティアラの小さく白い手が、俺の無骨な手にそっと触れた。
「マティウスみたいに」
「――――っ!?」
「だからね、私、マティウスのそういう頭の良いところが、その……えっと……。す……す、好き、だよ?」
耳まで真っ赤になりながら、ティアラは俺がずっと聞きたかった一言をつかえながらも言ってくれた。その瞬間、俺は全身が痺れるような感覚に陥る。
俺の気持ちは、一方通行じゃなかった。俺だけが、彼女を想っていたわけじゃなかった。ちゃんと彼女も俺を見てくれていた……。
二ヶ月経ってようやくわかった彼女の気持ちに、俺は嬉しさのあまり泣きそうになっていた。鼻の奥がツンとするのを必死で我慢しながら、俺は無意味にシーツを強く握る。
そうだよ。ティアラはすげー恥ずかしがり屋じゃねえか。何で俺、今までそのことを忘れてたんだよ……。
その恥ずかしがり屋の彼女に、こんなことを言われて我慢できるわけがない。気付いたら俺の口は、再びティアラの口を塞いでいた。ただし、先ほどよりも深めに。
しばらく手をパタパタとさせて抵抗していたティアラだったが、突然その動きがぱたりとやんだ。同時に、口の方も反応が返ってこなくなる。やがて俺の耳に届いてきたのは、スースーという穏やかな寝息だった――。
って、ええええええっ!? ちょっ、ちょっと待て! このタイミングで寝るか普通!? マイペースもそこまでいくとさすがに犯罪級だぞ!?
彼女から顔を離した俺は、すぐに揺すってティアラを起こそうと肩を掴み――。そこで俺はふと、あることを思い出す。
そういえば彼女、病人だった……。
ありえないタイミングで寝たのも、おそらく薬のせいだろう。ていうか、病人相手に何やってんだよ俺!?
ティアラ、ごめん。俺やっぱり馬鹿だわ……。
がっくりと両手を床に付いて打ちひしがれる俺だったが、当然慰めてくれる人などいない。この際、アレクでもタニヤでもいいから早く戻ってきてくれ。
などと一人芝居を続けても虚しいだけなのでこの辺にしておこう……。俺は再び彼女を起こさないように静かに腰を上げる。
穏やかに寝続けるティアラの顔色はもう赤くなく、病人らしい白っぽさに戻っていた。と、彼女の寝顔を見て俺の中にある欲求が生まれる。
まぁこれくらいなら、病人相手でも問題ないだろ――。
心の中で勝手にそう結論付けた俺は、ティアラの首元にかかっていた髪をそっと掻き分けた。
「み、みんな。ど、どうしよう!?」
翌朝、いつものようにティアラの部屋の扉を開けた途端、朝の挨拶も無しに彼女が青い顔で俺達に駆け寄ってきた。どうやら薬が効いて元気になったみたいだが、この様子は一体?
「姫様、どうされたのですか?」
彼女の只ならぬ様子に、俺の後ろに控えていたアレクとタニヤが不安げにティアラに歩み寄る。ティアラは髪をかき上げ、首元を俺達に見せながら続けた。
おい。まさか……。
「こ、これ。ここ見て。朝起きて鏡を見たら、こんな赤い痣が浮き出ていたの。身体の他の場所にはないみたいなんだけど……。どうしよう。私やっぱり変な病気なのかな……」
俺は引き攣った笑みを浮かべることしかできなかった。アレクとタニヤの視線がもの凄く痛い。
「えーと。マティウス君?」
「…………はい」
「私達は寝室に避難してあげるから、とりあえずマティウス君がちゃんと説明をしなさいね?」
「…………はい」
ニヤニヤしながら俺に言うタニヤ。アレクは無表情のまま、親指をグッと立てて俺に見せてきた。普段ならその彼女らの態度にすぐさま文句を言うところだが、今回ばかりは俺に原因があるので素直に返事をする。
ちなみに俺が項垂れているのはしょげているからではなく、赤くなった顔を隠すためだ。多分隠しきれてはいないだろうけど。
さて、この純粋で無知な彼女に、どう言って説明しようか――。
きょとんとしながら俺達のやり取りを見ていたティアラを前に、俺は痒くもない首を掻きながらしばらく悩むのだった。




