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酔恋

作者: 鳥久保咲人

 「酔っているの?」と聞かれて「酔ってないよ?」と強がって笑ってみる。

 新宿から西に少し外れた、女っ気の欠片もない一人暮らしのマンションの十四階。ここには少年が、お酒と煙草に瞳を輝かせるような無垢な少年が、白いベッドでうつぶせに寝転がって膝下をぶらぶらと遊ばせている。

 少年の名前は純也という。十七歳の甘えん坊の子犬のような男子高校生。体つきも細いが、精神的な線も細い。墨汁のついた筆でゆっくりと線をひいていくような、いつ途切れるともしれない不安定さが彼には見え隠れする。その不安定さが逆に母性本能をくすぐるのだった。

 彼はいつもわたしの家に遊びに来る。純也とはわたしの家でしか、会わない。そういう決まりをつくっている。わたしだけでなく純也の為にもそのほうがいいと思っているのは決して思い込みではないはずだ。それは派手な身なりのわたしと純也を並べれば一目瞭然だろう。

 椅子に座り、鏡の前で口紅をひいた。アッシュに染めたキャラメル色の髪が胸の幽谷におちる。

「どうして今から化粧するの?」

 純也はわたしのほうに首を向け見上げた。

「わたしだって抱き締められるときも女の子でいたいものなんだよ?」

 そう言い返すと、純也はすぐさま言い返した。

「麻美さんは充分可愛いよ」

「そんなこと言わないで。余計に化粧落とせなくなる」

「でも、偽りの顔で愛されても嬉しくないでしょう?」

「どうかな? 全てありのままのほうがいいとも限らないんじゃない?」

「大人だね」

 哀しそうに瞳を澱ませた彼は憂いを帯びていた。何か考えていることがあるように見えた。十七歳、自分が十七だった頃、二十五歳はひどく大人だった。自分のことはもう理解しても察してももらえない、銀河の彼方の遠い存在だった。純也も自分のことをそんなふうに感じはじめている気がして、わたしは突如恐ろしくなった。あれほど気にならなかった年齢というものが、今になって否応なく思考を横切ってくる。

 わたしは再び鏡を向いた。

「わたしは幻想のなかで生きたいだけ。子どもよりファンシーで強情なだけよ」

「そうやって感傷的になる麻美さんも僕はすき」

 少年は笑う。そのふっくらとした唇を開いた口のなかには一体どんな味の飴玉を含んでいるのだろう。

 わたしは目を瞑り、そしてゆっくりと開けて首を傾げた。

「素直なのね」

「それは麻美さんに足りないものだね」

 純也が真面目に返したためにわたしは困ったように笑い返した。無垢な瞳はその透明さゆえに、何もかも見通す鋭さがあるらしかった。純也のその鋭さに敬服した。わたしはいつの間にか、その透明さはどこかになくしてしまっていた。

 鏡の前、テーブルに水浸しになったグラスのウイスキーをゆっくりと喉に通す。うねるように熱く靡く内臓を感じて目を細める。このくらいでは酔わない。酔えない体なのは解っている。実の父は酒豪だった。そして病気で亡くなった母も。

「明日はお仕事?」

 純也が首を傾げる。むせかえりそうなほど甘ったるい声が耳をくすぐる。マニッシュな短い黒髪と長い前髪が目にかかっていて、それが彼を一層艶っぽくしている。シーツと同じ色をした肌を横目に、わたしはくすぶる熱を感じた。どうにも出来ない、身をくねらすような快感。初めて感じる、恥ずかしい空気。欲情する。

 わたしは笑いながらベッドに移動し、その淵に腰を掛け、頭を撫でた。

「明日のことは教えてあげない」

「なにそれ、いじわる」

「知ってるでしょう? わたしがいじわるなのは」

「だって麻美さんはなにも教えてくれないんだもん。何の仕事してるのか、どういう家族構成でどんなふうに育ってきたのか、いま僕のほかに誰かいるのか」

「他に誰もいないのはこの部屋を見れば分かるでしょう?」

「麻美さんは寂しがりだから常に誰かいないと生きていけないと思うから」

 肋骨の奥が、鳴った。気付かぬふりをつとめた。

「……純也はいてくれないの?」

「だって僕は遊びでしょう?」

「寂しいことを言うのね」

 悲しそうな目が向けられた。一瞬たじろいだ。

「だって僕、まだ麻美さんにすきって言われてない。ねえ僕のことどう思ってるの?」

「そういう質問って愚問じゃない?」

「そうやって麻美さんはすぐにはぐらかす」

「すきだよ」

「じゃじゃあどのくらい?」

 純也は言葉を詰まらせながら聞き返した。わたしは答える。

「このくらい」

 手のひらにりんごを乗せるように手先を少し丸めた。

「ほら、またいじわるする」

 純也が眉を寄せた。と、ふいに純也の両手首を押さえつけて無理やりベッドに仰向けにさせた。

「わたしの子宮を癒して」

「僕はいつも麻美さんに言われるがままだね」

「すきじゃない?」

「……ごめんなさい、すきです」

 わたしは拗ねる少年の唇をあま噛みした。噛み切れそうなくらいに柔らかい甘いミルクの味がした。

「麻美さん、酔っているでしょう? いつも僕とつながるときは決まって酔っているんだ。酔っているときだけこんなこと言ったりしたりするなんてずるいよ。ずるいよ麻美さん。きっとまた僕は……」

 眉間に明らかに皺を寄せる純也の、腰に飾りのように添えられたベルトを綺麗に外した。意識がふいに過去に引き戻された。


 わたしは今年、二十五になる。実感は湧かない。

 上京しやっと内定をもらった会社は一年と持たずに辞めた。地方の信用金庫は人間関係と上司のセクハラが原因だった。元々気にしていた女性ホルモンの多い体を遠慮することなく撫でまわされた。今思えば我慢すべきだったのかもしれない。少し我慢すれば慣れてしまって強くなれたのかもしれない。

 しかし寂しがりで情緒不安定になりがちな自分の性格を知っているいちばんの理解者が自分なら、そこを辞めても他で躓くことは目に見えていた。すべての原因が人間関係というわけではなくて、愛されたいがために生きるのに仕事は欲望を制御する決定的な根拠となり得たからだった。

 その後案の定、アルバイトを転々とした。刹那を生きられればそれでいいと思うようになっていった。明日しぬかもしれないいのちを抱えて、永遠と安定を望むなど愚かなことなのだ。とにかく欲望に忠実に生きたかった。他人のことは割とどうでもよかった。

 

 ある日の帰り道、電車に乗っていてふと思った。家のある駅で降りなければ、当然自分は『帰宅した』ことにはならない。そのあとでも先でもその他のどの駅で降りたとしても、帰る家がある駅で降りないと帰ったことにはならないのだ。当たり前のことなのになぜか寂しく思った。本当に今の家は帰る家なのか。どこで降りても帰れる自分でいたかった。それが自由なのだと勘違いしていた。そうして、わたしは溜め息の数だけ好きな人を増やした。帰れるようにした。それでも満たされていたかった。今思えば愚鈍だ。

自分の仕事の理由以外にそういう理由で純也に合い鍵を渡した。家で待っててもらえるように。帰るべき理由を見つけられるように。そして今では帰るべき家がひとつだけになった。自分の、自分と純也のいるこのマンションだ。

今は歌舞伎町を少しいった新宿の片隅のキャバクラでバイトをしている。気を遣い、身も心も苦しかった一年目を終え、なんとかやっていける術を学んだ。純也とはその一年目、バイト先の近くのバーで知り合った。

 純也はそこで労働基準法に触れる時間帯勤務でバーテンダーをしていた。なんとなく見た指が綺麗なので聞いてみると、ピアニストを目指しているのだと言った。今はドイツへの留学費を稼ぐためにバイトをしているのだという。

 怠惰的な、決して誇れない自分の人生を思い返した。惰性で短大へ行き、行きずりのひとと寝食をともにし、体を重ねる。その場しのぎの仕事やセックスを繰り返す。刹那を足するということは平穏と安寧を拒絶すること、つまり心の平安の来ることがないことだった。純也と出逢ったとき、血統書付きの子犬をみた雑種の心持ちがした。

 そうして純也が自分をすきだと言ってくれた夜、自分の過去は言うまいと決めた。情報に捕らわれずに体だけでもいいから瞳に映る自分を愛してほしかった。初めて、失いたくないものが出来た。刹那ではなく、これからも愛して欲しいひとが見つかった。しかし、扱い方が分からず持て余している。そんな自分を嘲う。

「気持ちよくしてあげるから、ねえお願い。終わりまでわたしの名前を口先で転がして」

「麻美さん、そんなに不安にならなくていいんだよ」

 ふいに聞いた言葉に思わず手を止めた。

「別に不安なんかじゃないよ」

「結婚する、喧嘩するって動詞はね、二人いないと使えない動詞なんだ」

「動詞?」

「うん、恋愛もいっしょだよ。一人で愛して一人で気持ちよくなるものじゃないと思うんだ」

「大人だね」

「僕はまだ十七。どう考えても子どもだよ、麻美」

 そうして、お互い同じ瞬間にこの闇夜に沈む暗がりの一室で羽ばたいたあと、わたしは純也と手をつないだまま、天井に向かって呟いた。

「すきだよ純也。わたし、あなたと出逢えて良かった」

 しかし、純也はこちらを向いたまま目を見開いて動かない。わたしは視線を逸らして続けた。

「すき。だから見放さないで。今もしあなたがいなくなったらわたし……わたし本当に崩壊しそう。でも依存ではないの。本当にあなたをすきになってしまっただけなの。不思議だね。わたしもよく分からないの。初めてのことばかりだから」

「ねえ麻美さん?」

「うん?」

「今日はすごく饒舌。いつもはそんなこと言ってくれないのに。やっぱり今日は酔っているの?」

 薄暗い世界に揺れる純也の顔を見つめ、わたしはふと闇に甘えてしまおうと思った。今夜はこの暗闇に甘えて、この口に含んだアルコールの効力に身を任せるふりをして、火照った顔をその熱さのせいにして。言えなかったことばのすべてを囁いてしまうのも悪くない。

 わたしは暗闇に窓から月光が差し込むベッドで、火照る顔を隠さずに笑った。

「そうだね。今日はちょっと酔ってるかな」



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