第8章:『逆張り』に隠された、彼の傷跡
橘詩織は完璧だ。でも、彼女は彼の魂の本当の姿を知らない。
その、ほんの僅かな『ズレ』は、私の心を折れさせないための、たった一本の命綱だった。
オペレーションのフェーズは、次の段階へ移行する。
「アル。これより、ターゲットを橘詩織から、天野大和本人に変更します」
『目的は?』
「彼の、心の奥深くを理解すること。特に、あの極端なまでの『逆張り』癖。あれがただの性格じゃないことだけは、確かだから」
私の指示を受け、アルはインターネットの広大な海へと潜っていった。現代人のデジタルタトゥーは、たとえ本人が消したつもりでも、どこかに痕跡を残している。特に、SNSが普及し始めたばかりの、彼の学生時代のデータは宝の山だった。
数時間の解析の末、アルが一つの古いブログをスクリーンに映し出した。大学時代の、天野大和の個人ブログだ。研究のこと、好きなSF映画の感想、何気ない日常。そこには、私が知るよりもずっと無邪気で、人を信じて疑わない、素直な青年がいた。
しかし、大学三年生の秋。
そのブログの更新が、ぷっつりと一ヶ月ほど途絶えている期間があった。そして、再開された最初のエントリーは、今までとはまるで別人のような、冷たく、硬質な文章で綴られていた。
『甘い言葉は、地獄への招待状だ。』
たった一行だけの、その記事。
そこから先のブログは、どこか達観したような、他人を寄せ付けないような、冷めたトーンに変わってしまっていた。
「アル、この空白の一ヶ月に、何があったの?」
『……関連データを検索。当時の学内ニュース、地域フォーラムの書き込みをクロスリファレンスします』
スクリーンに、無数のテキストデータが高速で流れていく。そして、いくつかのキーワードが赤くハイライトされた。
【学生投資サークル】【未公開株詐欺】【友人間の金銭トラブル】
『……結論。当時、対象が所属していた大学を中心に、学生をターゲットにした小規模な投資詐欺が横行していた模様です。主犯格の学生は逮捕されましたが、多くの学生が金銭的、精神的な被害を受けました』
その逮捕された主犯格の学生の名前を見て、私は息を呑んだ。
それは、空白期間の直前まで、大和のブログに親友として何度も登場していた、彼の名前だった。
断片的な情報を、アルが再構築していく。
大和は、その親友に「絶対に儲かる話がある」「お前のためなんだ」と巧みに誘導され、研究のために貯めていた大切なお金を、すべてその投資話に注ぎ込んでしまった。もちろん、それは真っ赤な嘘。親友だと思っていた男は、ただ大和をカモとして見ていただけだったのだ。
ブログの、一番最後の記事。
それは、事件から一年後に書かれ、そして、その日を最後に更新が止まっていた。
『失った金は、どうでもいい。だが、信じた心が踏みにじられた痛みは、一生消えないだろう。
他人が勧める道、他人が指し示す幸福。その先にあるのは、決まって破滅だ。
ならば、俺はもう二度と、誰かが敷いたレールの上は歩かない。
たとえそれが、いばらの道であったとしても。自分の足で、自分の意思で、真逆の方向へ進んでやる』
読み終えた瞬間、全身の血の気が引いていくのがわかった。
彼の「逆張り」は、ただの天邪鬼なんかじゃなかった。
心から信頼した人間に裏切られた、深い絶望から生まれた、自分自身を守るための、痛々しい鎧だったのだ。
だとしたら、私は。
今まで、私がしてきたことは、一体……?
「ベンチに座らないでください!」
「カフェがおすすめですよ!」
良かれと思って、彼のためを思ってかけていた言葉のすべてが、彼の耳には、あの裏切った親友の、甘い囁きと同じように聞こえていたに違いない。
私は、彼の傷口に、何度も、何度も、塩を塗り込むような真似をしていたのだ。
私は、ただの「観察者」じゃなかった。
彼の心を傷つける、「加害者」そのものだった。
「……う……ぁ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、大和……!」
画面に映る、若き日の彼の、痛みに満ちた言葉に向かって、私はただ、泣き崩れることしかできなかった。私が傷つけていたのは、今の彼だけじゃない。過去の、深く傷ついたままの、彼の心そのものだった。
『マスター……』
アルの静かな声が、沈黙を破る。
『対象の行動原理の根幹を、特定しました。今後の作戦は、これを基に再構築する必要があります』
その、どこまでも正しい声が、今はやけに残酷に聞こえた。
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「……ねえ、アル」
声が、震える。
「こんな私に……彼の隣に立つ資格なんて、あるのかな……?」
その問いに、アルが答えることはなかった。
ただ、部屋の静寂だけが、私の罪の重さを、無慈悲に教えているようだった。




