第7章:オペレーション・『ライバル分析』
家電量販店での一件から数日。私の心は、凍てつくような絶望と、それを溶かそうとする小さな決意の間で、激しく揺れ動いていた。
ホテルの部屋の窓から見える札幌の街は、すっかり晩秋の色に染まっている。街路樹の葉はほとんど散り、吹き抜ける風は日に日に鋭さを増していた。
「……アル。作戦会議を始めましょう」
「お待ちしておりました、マスター」
ブレスレットから投影されたホログラムスクリーンに、橘詩織の、あの太陽のような笑顔が映し出される。今までは見るだけで胸が苦しくなったその写真も、今は違う。彼女はもう、ただの恋敵じゃない。私が研究し、分析し、そして超えるべき「壁」そのものだ。
『これまでの直接的・間接的な妨害工作は、すべて失敗。あるいは、逆効果であったと結論付けられます』
「わかってる。だから、戦略を変えるわ」
私は宣言した。
「これより、オペレーション・『ライバル分析』を開始します。目的は、橘詩織という人間を徹底的に分析し、その弱点、あるいは欠点を見つけ出すこと」
『論理的なアプローチです。承認します。健闘を祈ります』
SNSの解析から始まった調査は、私の心を抉るような、彼女の完璧な日常の記録ばかりだった。動物シェルターでのボランティア、プロ顔負けの手料理、友人たちからの厚い信頼…。デジタルでの調査は、彼女の完璧さを証明しただけだった。
こうなれば、物理的に調査するしかない。
そして、決定的な日が訪れる。週末の午後、私は彼女がボランティアをしているという、郊外のアニマルシェルターが見える丘の上にいた。手には、未来から持ってきた高機能双眼鏡。ただ遠くを見るだけの代物じゃない。
双眼鏡を覗くと、中庭でたくさんの子犬や子猫たちの世話をする、詩織の姿が見える。
その時だった。一台の車がシェルターの前に停まり、中から見慣れた人影が現れた。大和だった。
彼は、詩織に何かを届けに来たようだった。二人は楽しそうに言葉を交わし、そして、大和の視線が、子犬たちと戯れる詩織の姿に注がれる。
私は、見てしまった。
彼の、その表情を。
それは、私が未来で何度も見てきた、愛しいものに向ける眼差しだった。尊敬と、好意と、そして何より、魂が惹きつけられているかのような、深く、澄んだ瞳。
その瞳は、一度として、私に向けられたことのない色をしていた。
ああ、ダメだ。
勝てない。この人には、絶対に勝てない。
涙が滲み、レンズが曇る。もう、諦めてしまおうか。そう思った、その時だった。
「アル!読唇解析モード、起動!」
『了解。対象、橘詩織の口唇の動きを解析。音声化します』
双眼鏡の視界の端に、解析されたテキストが浮かび上がる。
『――本当にありがとうございます。これ、探してたんです!』
詩織が、大和から受け取ったらしい本を胸に抱いて、嬉しそうに言っている。
だが、肝心の大和は彼女に背を向ける形になっていて、口元が見えない。
『対象、天野大和の口唇は観測不能。解析できません』
「そんな……!」
一番知りたい彼の言葉が、彼の気持ちが、わからない。焦りが募る。
その時、私の目に、信じられないものが映った。双眼鏡の倍率を最大まで上げる。詩織の、大きく澄んだ瞳。その黒い虹彩に、逆さまになった大和の姿が、豆粒のように、しかしはっきりと映り込んでいる。
「アル!詩織さんの瞳にズームして!そこに反射した大和くんの口元の動き、読めない!?」
『……無茶な要求です。ですが、理論上は可能。試みます』
アルの返答に、一縷の望みを託す。視界がぐっと寄り、詩織の瞳が画面いっぱいに広がる。その中の、本当に小さな反射像に、解析用のマーカーがいくつも表示された。
『……解析成功。音声化します』
『――いえ。たまたま古本屋で見つけただけですから』
聞こえた!大和の声が、聞こえる!
『そういえば天野さん、今度公開されるSF映画の『クロノスの残響』、もう観ました?』
詩織の言葉に、大和の目が、少しだけ輝いたのがわかった。それは、彼が未来で、私と何度も語り合った、大好きなシリーズの最新作だった。
『いや、まだです。橘さんも興味あるんですか?』
彼の声が、弾んでいる。
次の瞬間、詩織は、悪気なく、本当に屈託なく笑った。
『うーん、どうでしょう。私、ああいう難しいお話は、よくわからなくて。宇宙とか、時間とか、ちょっと苦手かな』
その瞬間、私は見逃さなかった。
双眼鏡のレンズ越しに、大和の顔に、ほんの一瞬だけ、よぎった寂しそうな影を。
彼の輝きかけた瞳が、すっと温度を失ったのを。
詩織は、何も気づかずに、子犬の話に戻っている。二人の会話は、相変わらず楽しそうだ。
でも、今、私の心は不思議と凪いでいた。涙は、いつの間にか乾いていた。
彼女は、完璧だ。優しくて、明るくて、誰からも愛される、太陽みたいな人。
でも。
彼女は、知らない。
大和が、夜を徹して語り明かすほど、SF映画を愛していることを。彼が、どれだけ孤独に、宇宙の真理と向き合ってきたかを。彼の魂の、一番暗くて、一番純粋な部分を。
それは、私が知っている。
私だけが、知っている。
『……マスター?』
アルの問いかけに、私は双眼鏡を下ろし、力強く頷いた。
「見つけたわ、アル」
それは、弱点なんかじゃない。欠点ですらない。
ただ、ほんの少しだけの、価値観の『ズレ』。
でも、今の私にとっては、それこそが、暗闇を貫く一筋の光だった。
「オペレーション続行よ。次の作戦を立てましょう」
私の声は、もう震えてはいなかった。




