第1章:ファーストコンタクトは最悪の香り
2025年10月8日、水曜日。午後2時43分。
突き抜けるような青空とは裏腹に、札幌の空気は秋の気配を色濃く含んでいた。大通公園の木々は赤や黄色に化粧を始め、テレビ塔が見下ろす芝生の上では、人々が思い思いの午後を過ごしている。
その人の波をかき分けるようにして、本田 朱里は走っていた。
「はぁっ、はぁっ……間に合って……!」
息を切らし、少しだけ未来仕様の高性能スニーカーがアスファルトを蹴る。視線の先、公園の西8丁目エリアに設置された、ごく普通の木製ベンチ。そして、そのベンチに向かってゆっくりと歩いている、一人の男性。
天野 大和。
30年後の未来で私が愛した、そして、これから私を全力で警戒するであろう、若き日の彼。
左腕のブレスレットが微かに振動する。視線を落とすと、ホログラムの文字が朱里にだけ見えるように浮かび上がった。
『ターゲット、天野大和を補足。目標地点まで残り約20メートル。要注意人物、橘詩織の接近まで、推定2分48秒』
相棒のナビゲーションAI『アル』からの冷静な報告が、朱里の焦燥感をさらに煽る。
わかってる。わかってるんだから!
この瞬間を、このたった数分の出会いを阻止するためだけに、私は30年という時を跳んできたのだ。
歴史データによれば、このあと、仕事の休憩で公園を訪れた大和が、例のベンチに座る。すると、散歩中の犬が彼にじゃれつき、その飼い主である橘詩織と、映画のようにロマンチックな出会いを果たす。それが、私の知る未来から、彼が消えてしまう原因となった「運命の分岐点」。
冗談じゃない。あなたの運命の相手は、私だけで十分よ。
朱里は最後のもつれそうな足を叱咤し、大和の目の前に回り込むようにして立ちはだかった。
「あ、あのっ!」
突然現れた挙動不審な女に、スマホに向けられていた大和の視線が、訝しげに持ち上がる。色素の薄い瞳が、眉間のシワと共に私を射抜いた。
「……なんですか」
温度の感じられない声。わかっていたけど、心が少しだけ軋む。
「お、お願いがあります!ど、どうしても、そこにあるベンチにだけは、座らないでください!」
涙目になりながら、私はほとんど懇願するように言った。頭を下げ、必死に訴えかける。私の人生の、いや、私たちの未来のすべてが、この一瞬にかかっている。
大和は一瞬きょとんとした後、全身から「怪しい」「関わりたくない」というオーラを放出し始めた。
「……は? 見ず知らずのあんたに、なんでそんな指図をされなきゃいけないんですか」
「理由とかじゃなくて!とにかく、お願いです!後生ですから!」
「(……なんだこいつ。新手の勧誘か? それとも何か買わせる手の込んだ詐欺か?)」
彼の心の声が聞こえるようだ。大和は、ふい、と私から視線を外し、わざと見せつけるように、私が指差したベンチへと歩を進める。
「や、やめて!」
私が制止の声を上げるも、彼は全く意に介さず、どかっとそのベンチに腰を下ろした。
「(言われれば言われるほど、やりたくなんだよな、こういうのは)」
そんな彼の勝ち誇ったような表情が、凍りつくのに時間はかからなかった。
一瞬の静寂。
公園の喧騒が、なぜかその瞬間だけ遠のいた気がした。
私の「ああっ!」という悲鳴とほぼ同時に、空からやってきた黒い影が、小さな、しかし致命的な爆弾を投下する。
ポトリ。
大和の、今日おろしたてに見える綺麗なシャツの肩口に、それは見事な白い染みを広げた。鳥の、フンだった。
呆然と空を見上げ、それからゆっくりと自分の肩に視線を落とす大和。彼の顔から、すうっと表情が消えていく。
ちょうどその時、白い小型犬を連れた、太陽のような笑顔の女性――橘詩織が、私たちの数メートル横を通りかかった。彼女は、奇声を上げる私と、肩に鳥のフンを乗せて石像と化している大和を怪訝そうに一瞥し、少しだけ距離をとって足早に去っていった。
歴史は、変わった。
『ミッションコンプリートです』
アルの冷静な声が、私の心の中でガッツポーズを後押しする。やった。やったんだ!
だが、喜びも束の間。
我に返った大和が、地を這うような低い声で、私に告げた。
「……お前の、せいだ」
怒りと不信と、ほんの少しの殺意すら含んだ瞳が、私を睨みつけている。
「あ、あの、これはその、違うくて……!」
しどろもどろになる私に、大和はチッと鋭い舌打ちを一つ。無言で立ち上がると、ポケットからティッシュを取り出し、忌々しげに肩を拭いながら、私を完全に無視して公園の出口へと歩いていく。
一人、ベンチの前に取り残される。
目的は達成した。でも、残ったのは、彼の背中に刻まれた強烈な嫌悪感と、胸に広がるズキリとした痛みだけだった。
『対象からの初期好感度は、マイナス100からのスタートです。マスターの健闘を祈ります』
ブレスレットから聞こえるアルの無慈悲なシステム音声に、私は色づき始めた木々を見上げ、力なく呟くことしかできなかった。
「……そんなぁ」




