第18章:あなたが、いた未来
俺の研究室は、静寂に包まれていた。
壁一面に広がるのは、無数の数式やシミュレーションデータを映し出す、巨大なホログラフィック・ディスプレイ。その片隅では、この部屋の頭脳である量子サーバーが、静かな動作音を立てている。紙の本は、俺が敬愛する物理学者の、古びた著作が数冊、机の隅に積まれているだけだ。
俺の人生の全てが詰まった、この場所。しかし今、その全てが、手のひらの上にある小さな、壊れたガジェットの前で、色褪せて見えた。
『アル』。
彼女がそう呼んでいた、AI。
病院から戻った俺は、この数日間、寝食も忘れ、こいつの解析に没頭していた。その間にも、橘さんから何度も心配するメッセージが届いていた。事故のショックと、俺がストーカーに付きまとわれていることへの同情。彼女の言葉は、どこまでも正しく、優しかった。
『天野さん、あんな人のために、あなたが苦しむ必要はないんですよ』
その正論が、なぜか俺の心をひどくざらつかせた。
研究室に籠もり、時間の感覚さえ失うほど、思考の全てをこの小さな機械に注ぎ込んでいた。学部時代から俺が専門としてきた、時空構造の理論。その知識を総動員し、現代の技術ではありえないオーバーテクノロジーの塊である、このAIの深層へとアプローチを試みる。
そして、今。
分厚い暗号化の壁の、最後のプロテクトが、音を立てて砕け散った。
『……深層ログデータへのアクセスを許可。再生します』
最初にスクリーンに映し出されたのは、断片的な映像と音声だった。
『――ねえ、大和。来年の記念日、どこに行きたい?』
『――札幌、とかどうだ?お前、ずっと行きたいって言ってたろ』
ソファに並んで座り、幸せそうに笑い合う、一組の男女。男は、俺と全く同じ顔をしていた。だが、その表情は、俺が知らないほど、穏やかで、幸福に満ちていた。
そして、その隣で、最高の笑顔を見せている、彼女――本田朱里。
なんだ、これは。
俺は、誰なんだ。
混乱する俺を置き去りにして、ログは続く。札幌旅行の計画を立てる、楽しそうな二人。そして、彼が彼女に告げる、あの言葉。
『たとえ時空の果てに迷い込んだって、俺が必ず探し出してやる』
その直後、映像はノイズにまみれ、そして、絶望に満ちた彼女の顔がアップになった。
『警告。大規模な歴史改変の発生を確認』
『検索。天野、大和』
『……該当者、見つかりません』
ああ、そうか。
俺は、この瞬間に、「いなくなった」のか。
ログは、彼女の悲壮な決意を映し出す。禁忌である時空跳躍装置を起動させ、全てを捨てて過去へ向かう、その覚悟を。
そして、再生されるのは、俺が知る、この世界の記録だった。
公園のベンチ、コンビニ、書店、祭り。俺が彼女を「ストーカー」として拒絶し続けた、全ての出来事。
だが、それは、俺の知らない、彼女の視点から記録されていた。
『マスター、危険です!』
『でも、行かないと!このままじゃ、大和が……!』
『マスターの行動は、対象の逆張り行動を誘発します!』
『それでも!』
俺が忌々しく思っていた彼女の行動の全てが、俺を「守る」ための、必死で、不用で、あまりにも痛々しい愛情表現だったことを、俺はようやく理解した。
俺のトラウマを知り、自分の罪に泣き崩れる彼女の姿。
イルミネーションの下で、一人凍えながら、俺たちの幸せをただ見つめていた、彼女の孤独な背中。
そして、祭りの日。崩れ落ちてくる鉄骨に向かって、絶叫しながら突進してくる、彼女の最後の姿。
全てが、繋がった。
俺の知らないところで、彼女は、たった一人で、俺の運命と戦い続けてくれていたのだ。
画面に映る、未来の俺の、幸せそうな笑顔。
そして、今の俺の、彼女を拒絶し、傷つけ続けた、愚かな姿。
後悔と、感謝と、そして、どうしようもないほどの愛しさが、濁流となって胸に押し寄せる。
「……う……ぁ……」
嗚咽が漏れた。
頬を伝う、熱い雫が、止まらなかった。
俺は、なんて愚かだったんだ。
◇
同じ頃。病院の白いベッドの上で、朱里は静かに目を開けた。
体中に走る、鈍い痛み。しかし、それよりももっと奇妙な感覚が、彼女を支配していた。
自分の体が、まるで薄いガラス細工のように、脆く、不確かな感じがする。
「……アル?」
呼びかけても、ブレスレットからの返事はない。
代わりに、病室の隅に置いてあった、彼女の荷物の中から、小さな電子音が響いた。予備の通信端末が、自動で起動したのだ。
『……マスター。メインユニットとの接続がロスト。緊急モードで応答します』
「アル……私、どうなったの……?」
『……マスターは、歴史への過剰な介入により、この時空における存在確率が、極限まで低下しています。簡単に言えば、あなたは、この世界から消えかかっているのです』
朱里は、そっと自分の手を見つめた。
指先が、ほんの少しだけ、光の粒子のように透けている。
『マスターの存在そのものが、この世界の時空を歪ませる、特異点となっています。このままでは、さらに予測不能な、大規模なパラドックスを引き起こしかねません』
その言葉の意味を、朱里は痛いほどに理解した。
私がここにいるだけで、この世界を、そして、私が愛した大和を、壊してしまう。
穏やかな顔で、彼女はアルに告げた。
「……わかったわ、アル」
それは、彼を愛するが故の、彼女の最後の、そして最も残酷な決断だった。
「私がいた未来へ、帰りましょう。
そうすれば、全ては元通りになる。彼が、詩織さんと結まれる、正しい歴史に」




