第17章:祭りのあと、こわれた時間
ピッ、ピッ、ピッ、という無機質な電子音が、静寂を支配していた。
白い壁、白いシーツ、そして、点滴のチューブや心電図のコードに繋がれ、白いベッドに横たわる、彼女。
札幌市内の大学病院、その集中治療室が、今の俺の世界の全てだった。
祭りの熱狂も、人々の悲鳴も、遠い昔の出来事のようだ。
俺の頭の中では、ただ一つの光景が、何度も、何度も、繰り返し再生されていた。
巨大な鉄骨が迫りくる、スローモーションの世界。
俺の名前を叫ぶ、彼女の必死な声。
俺を突き飛ばした、小さな体の、信じられないほどの力。
そして、俺の身代わりになって、血を流して倒れていた、彼女の姿。
「……なんでだよ」
誰に言うでもなく、呟いた声は、ひどく掠れていた。
あの日から、もう三日が過ぎていた。彼女は、まだ意識が戻らないままだ。
病室のドアがノックされ、私服の刑事が入ってきた。
「天野さん。少しだけ。彼女の身元ですが、まだ何もわかっていません。あなた、彼女のお名前、ご存じないですか?」
その問いに、俺はハッとした。
そうだ。あれだけ俺の周りをうろつき、俺の人生をかき乱してきた女の、名前すら、俺は知らない。
「……いえ。すみません、知りません」
俺の答えに、刑事は訝しげな目を向け、病室を出て行った。
自責の念と、理解不能な混乱が、脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜて、俺を狂わせそうだった。
俺は、無意識に、ポケットに入れていた硬い感触を確かめる。
あの日。俺を突き飛ばした、その瞬間。彼女の腕から、何かがちぎれ飛んで、俺の足元に転がった。周囲がパニックに陥る中、俺は、何かに導かれるように、それを拾い上げていた。
彼女と俺を繋ぐ、唯一の手がかり。
翌日、事態は思わぬ形で動いた。
病院に、一本の電話があったのだという。市内のカフェからで、「本田朱里というアルバイトが、無断欠勤のまま連絡が取れない。事故のニュースを見て、 もしかしてと思って」と。
すぐに警察が確認し、写真照合の結果、彼女の身元が「本田朱里」であることが、ようやく判明した。
「本田、朱里……」
刑事からその名前を聞かされても、俺には全くピンとこなかった。
(……こいつのことだ。偽名かもしれないな)
どこまでも疑ってしまう自分が嫌になる。だが、彼女の存在は、それほどまでに謎に満ちていた。
その日の夜。俺は一人、病室で、ポケットから例のブレスレットを取り出した。
手に取った瞬間、全身に鳥肌が立った。
なんだ、これは。
素材が、わからない。金属でも、プラスチックでもない。継ぎ目のない、滑らかな感触。充電ポートも、メーカーのロゴも、どこにもない。割れたスクリーンの下からは、この時代のものとは明らかに違う、見たこともないほど高密度な、半透明の集積回路が覗いていた。
物理学者としての、俺の全細胞が警鐘を鳴らしていた。
これは、おかしい。こんなテクノロジーは、現代には存在しない。
その時だった。
「……ん……」
ベッドの上で、彼女が小さく身じろぎした。
「おい、しっかりしろ!」
俺は咄嗟に、彼女のベッドに駆け寄った。彼女の瞼が、ぴくりと震える。意識が戻るのか。
俺は、彼女の手を握ろうとして――そして、凍りついた。
彼女の、指先が。
握ろうとした、その指先が、ほんの一瞬、その輪郭を失って、きらきらと光る、無数の粒子になったのだ。
それは、まるでCGみたいに非現実的で、しかし、恐ろしいほど美しい光景だった。
光の粒子は、一瞬だけ宙を舞うと、何事もなかったかのように、すうっと元の指の形へと収束していく。
「……夢、か……?」
俺は、自分の目を疑った。疲労が見せた、幻覚か。
だが、手のひらに残る、ピリピリとした静電気のような感触が、それが現実だったと告げていた。
ストーカー。偽名かもしれない、本田朱里という名前。未来のテクノロジーとしか思えない、謎のガジェット。そして、目の前で起きた、ありえない人体消失現象。
バラバラだったピースが、俺の頭の中で、一つの、最も非科学的で、最も恐ろしい可能性へと、急速に繋がり始めていた。
まさか。
そんなことが、あるはずがない。
だが、もし。もし、そうだとしたら。
俺は、もう一度、手のひらの上の、壊れたブレスレットを見つめた。
こいつが、全ての答えを知っている。
「……お前は、一体、誰なんだ」
あの日、俺が絶叫した問い。
その答えを見つけ出すため、俺は、禁断の扉を開ける決意をした。
このガジェットを、俺の研究室で、解析する。
それが、どんな真実を俺に突きつけることになるのかも、知らずに。




