第15章:『銀河流舞』、仕掛けられた最後の罠
6月。札幌の街は、ライラックの甘い香りに代わって、じりじりと肌を焼く初夏の日差しと、沸騰するような熱気に包まれていた。
街の至る所から聞こえてくるのは、伝統的な鳴子の音と、それを増幅させるシンセサイザーのビート。初夏の夜空を舞台に繰り広げられる、光と音と舞の祭典――『札幌銀河流舞フェスティバル』。街全体が、一つの巨大な舞台と化したかのような、圧倒的な高揚感。
私は、その熱狂の中心で、ただ一人、冷めていた。
ライラックまつりの日、私の心は完全に砕け散った。もう、彼を追いかけるのはやめよう。彼の幸せを願うなら、私が彼の前から消えるべきだ。そう、決めたはずだった。
『マスター。警告します』
ホテルの部屋で、窓の外の喧騒を無感動に眺めていた私に、アルが冷徹な事実を突きつけた。
『今週末、『札幌銀河流舞フェスティバル』の本祭にて、最後の、そして最大の未来分岐点が発生します』
スクリーンに、未来予測のデータが映し出される。
『歴史データによれば、対象・天野大和は、橘詩織と共に祭りを訪れ、その圧倒的な熱気と一体感の中で、彼女への想いを確信。二人は、この日を境に、正式に恋人となります』
アルは一呼吸置くと、続けた。
『この分岐点を通過した場合、我々の任務の成功確率は、統計的に有意な数値を下回り、事実上、0%に収束します』
「……そう」
私は、ただ短く答えた。もう、驚きも、悲しみもなかった。
「もう、いいのよ、アル。私が、諦めたんだから」
『……マスターの感情的判断は理解します。ですが、このまま何もしなければ、我々がここに来た意味が完全に失われます。それで、本当に後悔はありませんか?』
後悔。
その一言が、灰になったはずの私の心に、チリリと小さな火種を落とした。
本当に、いいのだろうか。このまま、すべてを運命のせいにして、逃げ出してしまって。
「……でも、私に何ができるっていうのよ」
私が弱々しく反論すると、アルはスクリーンを切り替え、大和の、あのブログの最後の記事を映し出した。
『自分の足で、自分の意思で、真逆の方向へ進んでやる』
『我々には、最後のカードが残されています』
アルの声が、静かに響いた。
『彼の心を、最も深く縛り付けている、そのトラウマそのものを、利用するのです』
それは、悪魔の囁きのように聞こえた。
彼の傷を、私の目的のために利用するなんて。
でも、もう、これしか残されていなかった。
金曜日の夕方。私は、彼の勤務先ビルから出てくる大和を待ち伏せた。
私の姿を認めた彼の顔に、警戒と、ほんの少しの戸惑いが浮かぶ。
「……何の用だ」
「少しだけ、お話が」
私たちは、ビルの裏手にある、人のいない小さな公園に向かい合った。
何を言うべきか。言葉が、喉の奥でつかえる。
でも、言うしかない。これが、最後なのだから。
私は、意を決して、彼の目をまっすぐに見つめた。
「週末、『銀河流舞フェスティバル』がありますけど」
彼の肩が、微かに揺れた。詩織さんに誘われているのだろう。
「あんなの、ただハイテクなだけで、中身がないですよ」
私は、彼の心の傷をなぞるように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「ドローンやプロジェクションマッピングで飾り立てた、うるさいだけのイベントです。人混みが苦手な、合理的なあなたが行っても、絶対に楽しめない。貴重な休日を、そんなことで無駄にするなんて、あなたらしくない」
それは、彼の逆張り癖を誘うための、罠の言葉。
と同時に、彼の性格を、彼の本質を、誰よりも深く理解しているからこそ言える、真実の言葉でもあった。
諸刃の剣。
彼は、私の言葉を「指図」と捉え、反発して祭りに行くだろうか。
それとも、私の言葉の奥にある「理解」を感じ取り、立ち止まってくれるだろうか。
大和は、何も言わなかった。
ただ、今まで私に向けたことのない、深く、探るような目で、私をじっと見つめている。その瞳の奥の色を、私には読み取ることができなかった。
言うべきことは、言った。
私は彼に背を向けると、一度も振り返らずに、その場を去った。
最後の罠は、仕掛けられた。
あとは、彼がどちらの道を選ぶか。
運命の歯車が、どちらに回るのか。
私にはもう、ただ祈ることしか、残されていなかった。




