第14章:ライラックの香りと、砕け散る心
5月。長く、色のなかった札幌の冬は、嘘のように遠い過去になった。
街は生命力に満ち溢れ、大通公園では、待ちわびた季節の到来を祝うかのように、ライラックの花が甘く、むせ返るような香りを放っていた。
「ライラックの咲く季節に、大通公園を散歩したい」
未来で、私がそう呟いたことから、全ては始まった。
彼と私が、二人でいるはずだった、約束の場所。
その場所に、今、彼は別の誰かといる。
『対象、天野大和および橘詩織。大通西7丁目、ライラック資料館前にて接触を確認』
アルの報告に、私はただ、木陰から二人を見つめていた。
詩織がSNSに「ライラックまつり、すごく楽しみ!」と投稿しているのを見た時、私はここに来ることを決めた。
妨害するためじゃない。これは罰なのだ。私が失った未来が、どれほど美しく、かけがえのないものだったのかを、この目に焼き付けるための。
二人は、並んで歩いていた。
詩織が、ライラックの香りを胸いっぱいに吸い込んで、「すごくいい香りですね!」と、太陽のように笑う。大和が、その笑顔を見て、穏やかに、本当に穏やかに、微笑み返す。
未来で、私だけに見せてくれたはずの、あの顔で。
彼らは、ライラックのソフトクリームを二つ買って、ベンチに座った。
詩織が、いたずらっぽく自分のソフトクリームを大和の口元に運ぶ。大和が、照れくさそうに、でも嬉しそうに、それを一口食べる。
その光景は、まるで、私が失った未来の、完璧な再現フィルムを見ているようだった。
「……きれい」
私の口から、無意識に言葉が漏れた。
嫉妬も、憎しみも、もう通り越してしまった。そこにあったのは、ただ、純粋な憧憬。
ああ、なんて素敵な二人なんだろう。私が入り込む隙なんて、どこにもない。私が、ここにいてはいけない。
『マスター』
アルの、いつもと変わらない冷静な声が、私の思考を遮った。
『このままでは成功確率が0%のまま収束します。非論理的です』
「いいのよ、もう……」
『よくありません』
アルの声が、ほんの少しだけ、強くなった気がした。
『橘詩織が化粧室へ向かいました。対象が単独になる時間は、推定3分12秒。接触のチャンスです。今なら、自然な形で会話が可能です』
その言葉に、私の心臓がドクリと跳ねる。
見ると、詩織が「すぐ戻りますね」と大和に手を振り、近くの建物へ入っていくところだった。ベンチに一人残された大和が、ぼんやりと空を見上げている。
今なら、行ける。
偶然を装って、隣に座ることだってできるかもしれない。
でも、私の足は、地面に縫い付けられたように動かなかった。
私が声をかけたら、彼の心をまた傷つけるだけだ。私の存在が、彼の穏やかな時間を壊してしまう。
『マスター。これは現在観測されている中で、最もリスクの低い介入機会です。この機会を逃せば、次の有効な接触ポイントは予測できません』
アルが、畳み掛けるように事実を告げる。
わかってる。わかってるのよ、アル。でも……!
「やめて、アル」
私は、懇願するように呟いた。
「もう、いいのよ。私には、その資格がないんだから」
その言葉を最後に、アルは沈黙した。
やがて、詩織が笑顔で戻ってきて、再び大和の隣に座る。私が踏み出せなかった、その場所に。
二人はまた楽しそうに言葉を交わし、そして、夕暮れの公園を後にしていった。
一人、取り残される。
ライラックの甘い香りが、鼻の奥をツンと刺激する。
それは、私が失った、幸福な未来の香りだった。
私は、ただ一人、その香りに包まれながら、夕暮れの公園に、いつまでも立ち尽くしていた。
クライマックスに向けて、私の心は、自らの手で、静かに、そして完全に、砕け散った。




