第13章:桜の儚さと、募る想い
4月下旬。札幌の街は、長い冬の眠りから覚め、一斉に息を吹き返していた。
遠くに見える手稲山の山頂にはまだ白い雪が残っているというのに、街中は柔らかな薄紅色に染まっている。桜だ。待ちわびた春の象徴が、人々の心を浮き立たせ、街全体を優しい光で包んでいた。
私は、その光の輪から弾き出された、孤独な影だった。
円山公園の桜並木を、一人、あてもなく歩く。周りには、楽しそうに笑い合う恋人たちや、お弁当を広げる家族連れの姿。その誰もが幸福そうで、私だけが、この世界の住人ではないみたいだった。
『マスター。対象、天野大和のSNSに新規投稿。位置情報は、この公園から約500メートル離れたカフェです』
アルの報告に、私は「そう」とだけ短く答えた。
彼が今日、詩織と花見に来るであろうことは、予測がついていた。でも、もうそれを追う気力もなかった。
雪解けの頃、私は決めたはずだった。彼の人生に干渉せず、ただ影から、彼の幸せを守るのだと。それで満足できると、自分に言い聞かせていた。
でも、ダメだった。
春は、あまりにも優しくて、そして残酷だ。
舞い散る桜の花びらが、雪のように視界を白く染める。その、息を呑むほど美しい光景が、私の心の奥底にしまい込んでいたはずの、消せない想いをかき乱す。
――きれいだね、朱里。
未来で、彼と一緒に見た、満開の桜。
――来年も、その次も、ずっと一緒に見ような。
そう言って、私の手を握ってくれた、彼の温もり。
「……うそつき」
ぽつりと漏れた声は、誰にも聞こえずに、春の喧騒に溶けて消えた。
あの未来は、もうない。私がこの手で、別の道を選んでしまったのだから。
その時だった。
人混みの向こうに、見つけてしまった。
桜の木の下で、写真を撮り合っている、大和と詩織の姿を。
詩織の髪に舞い落ちた花びらを、大和が、本当に優しい手つきで取ってあげている。その仕草が、あまりにも自然で、あまりにもお似合いで、私は呼吸の仕方すら忘れてしまった。
ああ、きれいだな。
本当に、きれいだ。
私が失った未来は、こんなにも美しかったんだ。
胸の奥が、静かに、でも深く軋む。
守るだけでいいなんて、嘘だった。本当は、今すぐあそこに駆け寄って、彼の手を奪ってしまいたい。詩織の代わりに、彼の隣で笑いたい。
そんな醜い感情が、私の中にまだ渦巻いている。
はらりはらりと、桜の花びらが舞い落ちる。
その、あまりにも儚い美しさが、私の失われた幸福と重なって見えた。
美しくて、愛おしくて、でも、決してこの手には留まってくれないもの。
『マスター……?心拍数に乱れを検知します』
アルの心配そうな声に、私はゆっくりと首を横に振った。
「……大丈夫よ、アル」
大丈夫。
この痛みが、私が彼を愛した、何よりの証なのだから。
募る想いを、そっと胸の奥に閉じ込める。
私は、幸せそうな二人にもう一度だけ背を向けると、桜吹雪の中を、ただ一人、静かに歩き始めた。
次の、運命の場所へ向かうために。私の心が、完全に砕け散る、その瞬間のために。




