第12章:雪解けと、彼の知らない優しさ
3月。アスファルトの隙間から、気の早い草が顔を出す季節。
札幌を覆っていた分厚い雪の鎧は、春の日差しにその堅固さを緩め、街のあちこちでぽたぽたと、優しい雪解けの音が聞こえ始めていた。長く、凍えるようだった冬が、ようやく終わりを告げようとしている。
私の戦い方もまた、この季節の移ろいと共に、静かに形を変えていた。
「アル。今日の彼のスケジュールは?」
『対象は本日午後、重要な取引先へのプレゼンテーションを控えています。関連資料はこちらです』
ホテルの部屋で、私はスクリーンに映し出された企画書を、真剣な眼差しで追いかけていた。あの日、彼の過去の傷を知ってから、私はもう二度と、彼の選択に直接干渉するような真似はしていない。
妨害でも、誘導でもない。
今の私がすべきことは、彼の人生に決して姿を現すことなく、ただ影から、彼をそっと守ること。それは、私が彼にしてしまったことへの、ささやかな贖罪だった。
「……見つけた」
資料の5ページ目。グラフの元データに、致命的な入力ミスがあった。未来での彼との会話を思い出す。彼は、このプレゼンの失敗がきっかけで、しばらく大きなプロジェクトから外されることになるのだ。
私は、使い捨てのフリーメールアドレスを瞬時に作成し、簡潔な文面を打ち込んだ。
『件名:XXプロジェクト企画書について。5ページのグラフデータに誤りがあるようです。念のため、ご確認を。通りすがりの者より』
送信ボタンを押し、即座にアカウントを消去する。これで、私に辿り着くことはない。
数時間後。私は、彼の勤務先ビルが見えるカフェの窓際で、ただ静かに息を潜めていた。
やがて、プレゼンを終えたらしい大和が、同僚と連れ立ってビルから出てくる。その表情は、疲れてはいるものの、どこか安堵したような色を浮かべていた。
「いやー、危なかったな。提出直前に、誰か知らないけど、匿名でミスを教えてくれるメールが来てさ」
「マジで!?ラッキーだったな、お前」
同僚との会話が、微かに耳に届く。彼は、不思議そうな顔で空を見上げていた。
その表情を見られただけで、十分だった。胸の奥に、温かい何かが、じんわりと広がっていく。
そんな日が、いくつか続いた。
ある雨の日には、彼がカフェに置き忘れた、おじいさんの形見だという古い万年筆を、そっと店員さんに届けておいた。彼がSNSの隅で「見つかってよかった。届けてくれた誰か、ありがとう」と呟いているのを見て、一人でこっそり微笑んだ。
またある日には、彼が楽しみにしていた限定販売のSF映画のBlu-rayが、彼の知らないサイトでゲリラ的に先行販売されているのを見つけ、匿名で彼のブログにコメントを残した。
彼は、私の存在に気づかない。
ただ、彼の日常から、小さな不幸や不運が、少しだけ取り除かれていくだけ。
「……マスター」
その日の夜、アルが静かに私に問いかけた。
『このような行為に、意味はあるのでしょうか。マスターの最終目的である、対象との関係構築には、一切寄与しません』
「いいのよ、これで」
私は、窓の外の夜景を見ながら、穏やかに答えた。
「今の私は、彼の隣に立つ資格なんてないもの。でも、彼に幸せでいてほしいって思う気持ちは、本物だから」
それは、勝利を目指さない、奇妙な戦いだった。
彼に気づかれなくてもいい。感謝されなくてもいい。
ただ、私が愛した人が、この世界で少しでも穏やかに、幸せに生きていられるのなら。
雪解けの雫が地面に染み込んでいくように、私のこの想いもまた、彼の知らないところで、彼の日常をそっと支える一滴になればいい。
今はまだ、それだけで十分だった。




