第10章:吹雪がくれた、束の間の共闘
1月。札幌の街は、その本来の姿を現した。
空は鉛色の雲に覆われ、街全体が、まるで巨大なスノードームの中に閉じ込められたかのように、しんしんと降り続く雪に支配されていた。
「……記録的な大雪、ね」
ホテルの窓から外を眺めながら、私は呟いた。テレビのニュースは、朝からどのチャンネルも同じ情報を繰り返している。交通機関はほぼ全てが麻痺。不要不急の外出は控えるように、と。
でも、私にはやらなければならない「仕事」があった。もちろん、未来人であることがバレないための、偽装のアルバイトだ。それに、じっと部屋に籠っていると、イルミネーションの下で見た、あの完璧な二人の姿が頭から離れなくて、気が狂いそうになる。
重装備で外に出たものの、数時間後、私は自分の判断の甘さを呪うことになった。吹雪はさらに勢いを増し、地上はもはや歩くことすら困難なホワイトアウト状態。私は、他の多くの人々と同じように、避難するように札幌駅前通地下歩行空間、通称『チ・カ・ホ』へと逃げ込んだ。
地下は、地上とは別世界だった。暖房が効いた空間は、同じように足止めを食らった人々でごった返している。これなら、しばらくやり過ごせる。そう思った矢先だった。
人混みの向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけてしまったのだ。
天野大和。
彼も、仕事帰りだろうか。忌々しげにスマホの運行情報を見つめている。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
私は咄嗟に柱の影に身を隠す。気まずいとか、そういうレベルじゃない。今の私には、彼に合わせる顔がなかった。私がいるだけで、彼を不快にさせてしまう。私が存在するだけで、彼の心を傷つける「加害」になってしまうのだから。
私はただ、彼が視界から消えるのを、息を殺して待った。
しかし、運命は、またしても私たちに意地の悪い悪戯を仕掛けてきた。
突如、パンッ、という短い音と共に、チ・カ・ホの全ての照明が一斉に消えた。
「きゃあっ!」
「なんだ!?」
完全な闇。あちこちから悲鳴と怒号が上がり、穏やかだった避難場所は、一瞬にしてパニックの坩堝と化した。
『マスター。外部電源の遮断を確認。おそらく、吹雪による送電トラブルです』
「わかってる……!」
私は、押し寄せる人の波に倒されないよう、必死に柱にしがみついた。暗闇は、人々の理性を簡単に麻痺させる。このままでは、将棋倒しが起きてもおかしくない。
その時だった。私の脳裏に、未来で受けた防災訓練の記憶が蘇った。
『このタイプの公共施設の非常用電源は、主電源喪失から正確に90秒後に起動します。最も危険なのは、その90秒間のパニックです』
気づいた時、私は叫んでいた。
「皆さん、落ち着いてください!すぐに非常灯がつきます!その場から動かないで!」
私の声が、どれだけの人に届いたかはわからない。
でも、その声を聞いたであろう一人が、暗闇の中で、ぴくりと動きを止めたのを、私は確かに感じた。大和だった。
そして、悲劇は起きた。
「誰か!おばあさんが倒れた!」
パニックに飲まれたような、若い女性の悲鳴。まずい。この状況で、誰かが倒れるなんて。
私は、もう迷わなかった。彼を傷つけるかもしれない、なんて躊躇は、目の前の命の危機の前では吹き飛んでいた。
私はスマホのライトをつけ、声がした方へと人混みをかき分けて進む。
「大丈夫ですか!?」
床には、顔面蒼白のおばあさんが、ぐったりと座り込んでいる。
『対象のバイタルをスキャン。低血糖によるショック症状の可能性が高いと判断』
アルの冷静な分析が、脳内に響く。
私は周りを見回し、叫んだ。
「誰か、甘いものを持っていませんか!?ジュースか、飴玉でも!」
しかし、パニック状態の群衆からの反応はない。誰もが、自分のことで精一杯だった。
どうしよう、と焦った、その瞬間。
私のスマホのライトが照らす先に、すっと、一本の缶ジュースが差し出された。
「……これで、いいか」
大和だった。
彼は、私が一番必要としているものを、まるで最初からわかっていたかのように、差し出してくれた。
「……はい!」
私たちは、もう言葉を交わさなかった。
私が「スペースを開けてください!」と言えば、彼が屈強な体で周りの人を制止してくれる。私がおばあさんの体を支え、ゆっくりとジュースを飲ませる。その間、彼は自分のスマホで周囲を照らし続け、二次被害が起きないように警戒してくれていた。
それは、ほんの数分間の、束の間の共闘だった。
やがて、予告通りに非常灯がぼんやりと空間を照らし出し、駅の係員が駆けつけてきた頃には、おばあさんの顔色も少しだけ戻っていた。
騒ぎが収まった後、私たちは少し離れた場所で、壁に背を預けていた。
気まずい沈黙。
先にそれを破ったのは、彼の方だった。
「……あんた、一体、何なんだ」
その声には、いつものような棘や嫌悪感はなかった。
ただ、純粋な、そして深い混乱だけが滲んでいた。
ただのストーカーだと思っていた女が、なぜ、あのパニックの中で、誰よりも冷静に、的確に行動できたのか。
私は、彼の問いに答えることができない。
でも、わかった。
彼は今、初めて、私のことを「ストーカー」というフィルターを外して、見ようとしてくれている。
その事実だけが、凍てついた私の心に、ほんの少しだけ、温かい光を灯してくれた気がした。




