第4話 監査と共棲
翌朝、わたくし、エリアーナ・フォン・ヴァイスフルトは、監査役レオンハルト・フォン・アードラー騎士団長を伴い、再びあの荒れ果てた畑の前に立っていた。
辺境の朝は、王都のそれとは比較にならないほど空気が鋭利だ。肌を刺す冷気が、この土地の生産性の低さを証明している。わたくしの服装は、昨日と同じく実用性を最優先した乗馬服。対するアードラー団長は、一点の染みもない白銀の騎士服に身を包み、その存在自体がこの荒涼とした風景から浮き上がっていた。彼の視線は、わたくしではなく、わたくしが作成した調査計画書と、目の前の不毛な大地とを、交互に値踏みするように行き来している。
「エリアーナ嬢。提出された計画書によれば、貴女は着任後、領民を動員して独自の土壌調査を行ったとある。王国の規定する調査手順を無視した、極めて異例な措置だ。その記録の提出を求める」
彼の声は、温度という概念をどこかに置き忘れてきたかのように平坦で冷たかった。
「記録でしたら、こちらに」
わたくしは携えていた羊皮紙の束を差し出す。そこには、各区画の土壌サンプル分析結果、酸性度、含有鉱物の推定値、そしてそれに基づく推奨作物リストが、前世の知識を総動員したグラフと図表でまとめられていた。
彼は無言でそれを受け取ると、数秒間、その紙面に鋼色の瞳を走らせた。
「……この書式は、王国の規定にない。計算式も理解不能だ」
「規定にないのではなく、規定が追いついていないだけですわ、アードラー団長。この土地は、王都の基準で測ること自体が非効率。見ての通り、この痩せた酸性土壌では、王国推奨の小麦など育つはずもない。わたくしは、この土地の現実という『ファクト』に基づき、最も合理的な判断を下したに過ぎません」
規定、規定、また規定。この男の頭の中は、王国の法典でできているのだろうか。いや、法典そのものか。柔軟性という概念が存在しないデータベースを相手にしている気分だ。実に非生産的である。
「ふぁくと? いまいち分からんが。それに、貴様の言う『合理性』が王国の法を上回ることはない。全ての事業は、法と規定に則って行われるべきだ。それが秩序だ」
「その秩序が、この土地の民を飢えさせているという現実から、目を背けてはいけませんわ」
わたくしたちの間に、見えない火花が散る。彼の信じる秩序と、わたくしの信じる合理性。どちらも正しい。だが、どちらも単独では機能しない。その事実を、この氷の騎士はまだ理解していない。いや、理解することを自らに禁じている。そうとしか思えなかった。
*
その日の午後、わたくしは領内の地理情報を把握するため、村の裏手にある小高い丘を測量していた。ターニャが「あそこなら村全体が見渡せますよ」と教えてくれた場所だ。
一通りの作業を終え、ふと視線を村の方へ戻した時、わたくしの目に意外な光景が飛び込んできた。
村の片隅にある、小さな墓地。その中に、レオンハルト・フォン・アードラーが一人、佇んでいた。
彼は特定の墓標の前に、ただ、じっと立っている。祈りを捧げているわけでも、何かを調べているわけでもない。いつもの寸分の隙もない立ち姿とは異なり、その肩には、辺境の鉛色の空と同じ重さの何かが、のしかかっているように見えた。
興味、というよりは、分析対象に対するイレギュラーなデータを発見した感覚。
わたくしは彼に気づかれぬよう、距離を詰めていく。
風化した墓標に刻まれた名前。かろうじて読み取れたのは『ルドルフ』という文字だった。
わたくしの脳内のデータベースに、その名前は存在しない。けれど、あの氷の騎士の表情に、一瞬だけよぎった人間的な陰り。無視するにはあまりに大きい、かつ新たな変数だった。わたくしは、その情報を脳内の一隅にファイリングすると、静かにその場を離れた。
*
その夜。領主の館の執務室で、わたくしは山積みの古文書と格闘していた。過去数十年分の、およそ管理とは呼べないレベルで放置された領地の収支記録だ。これを整理し、キャッシュフローのボトルネックを特定しなければ、次の施策が打てない。
「ぐぬぬぬっ!」
苛立ちが募り、羊皮紙を乱暴にめくった、その時。
コン、と控えめなノックの音と共に、執務室の扉が開かれた。そこに立っていたのは、レオンハルトだった。
彼は室内の惨状を一瞥すると、わたくしに向かって、平坦な声で有無を言わせぬ響きで、こう告げた。
「ひとりでは非効率だ。俺が手伝う」
わたくしは「は?」という言葉を必死に押し止めた。