第3話 氷の騎士、来訪
使者が去ってから三十日、ノルドクレイの村は緊張感に包まれていた。
村の入り口に、わたくしとギデオン、そして不安げな面持ちの村人たちが集まっている。監査役の来訪。それは、王都の権力が、この忘れられた辺境に再びその冷たい視線を向けたことを意味する。
やがて、地平線の向こうから、統率の取れた一団が姿を現した。わたくしたちは到着するのをじっと待つ。先頭を駆ける一際大きな軍馬の上には、陽光を弾く白銀の鎧。その人物が馬から降り立った瞬間、周囲の空気がさらに数度下がった気がした。
白銀の髪は冬の氷のように冷たい輝きを放ち、その下にある鋼色の瞳は、一切の感情を映さない。鍛え上げられた長身は、王都騎士団の寸分の隙もない制服に包まれ、その立ち姿は精巧な氷の彫像だ。
彼こそが、王都からの監査役、レオンハルト・フォン・アードラー騎士団長。弱冠三十二歳にして騎士団の頂点に立ち「氷の騎士」の異名で知られる男。
彼はわたくしの前に進み出ると、儀礼的な挨拶もなしに、凍てつくような声で言い放った。
「貴女がエリアーナ・フォン・ヴァイスフルト公爵代理か。俺は監査役として派遣されたレオンハルト・フォン・アードラーだ。早速だが、貴女が着任以来行ったとされる税制改革は、王国の法を逸脱した極めて異例な措置と聞く。これは不正蓄財の温床となりかねない、断じて看過できん事案だ。これより、徹底的な監査を開始する」
彼は国王陛下直属の騎士にして、貴族の不正経理を摘発する監査官としての顔も持つ。これまで暴いた貴族の不正は枚挙にいとまがない。
最悪だ。
わたくしの脳裏に、その一言が浮かぶ。このタイミングでレオンハルトを送り込むとは、現場の事情を一切考慮しない、典型的な中央集権型官僚の発想。彼にとって、わたくしの施策は、ただの「規定違反」の案件リストに過ぎないのだ。
「ようこそおいでくださいました、アードラー騎士団長。わたくしがエリアーナです」
わたくしは完璧なカーテシーをしながら、冷静に言葉を返す。
「ですが、わたくしの施策は、この疲弊した領地を立て直すための、最も合理的かつ効果的な手段です。現場を知らないお役人様に、不正の温床と断じられるのは心外ですわ」
わたくしの言葉に、レオンハルトの眉が微かに動いた。彼の鋼色の瞳と、わたくしのサファイアブルーの瞳が、火花を散らすように交錯する。
氷の騎士との、最悪の出会いだった。
*
埃っぽく、かび臭い領主の館の執務室。そこは、新たな戦場と化した。
レオンハルトは、この領地に関する全ての財務記録の提出を要求した。彼の目には、どうせ杜撰な管理の帳簿が出てくるだろう、という侮りが浮かんでいる。この辺境の、しかも公爵家から厄介払いされた令嬢が、まともな財務管理などできるはずがないと。
その傲慢な予測を覆すことこそ、わたくしの得意分野だ。
「こちらが、わたくしが着任してからの全ての財務諸表です。損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書、全てまとめてあります」
わたくしが差し出したのは、前世の経営コンサルタントとしての知識を総動員して作成した、完璧な会計帳簿の束だった。項目ごとに整理され、収入と支出が一目でわかるようにグラフ化までされている。この世界では、王宮の財務省ですら採用していないであろう、最新の会計システムだ。
「きゃっしゅふろー?」などとつぶやきながら帳簿のページをめくるレオンハルト。その指が、一瞬、止まった。彼の凍てついた表情に、初めて動揺の色が浮かぶ。それをわたくしは見逃さなかった。
彼はその完璧なデータの中から、何とか粗を見つけ出そうと必死になっている。だが、そこに破綻は一切ない。
「……この書式は、王国の規定とは異なる。受理できん」
ようやく彼が絞り出したのは、そんな重箱の隅をつつくような指摘だった。
「書式が問題なのではありません。そこに示された内容こそが重要です。この帳簿が、わたくしの経営の透明性を何よりも雄弁に物語っているはずですが?」
わたくしは一歩も引かない。
レオンハルトは、忌々しげに帳簿を閉じると、わたくしを真っ直ぐに見据えた。
「貴女のやり方は、全てが規定違反だ」
「結果が全てですわ」
彼の信念と、わたくしの信条が、執務室の冷たい空気の中で、真っ向から衝突した。