第2話 最初の信頼
死を覚悟した。
突進してくる巨大なブルートボアを前に、わたくしの思考は完全に停止した。これまで経験したどんな危機的状況とも次元が違う。これは交渉の余地も、戦略的撤退の選択肢もない、純粋な危機。わたくしが培ってきた全ての知識と経験が、この瞬間、全くの無価値と化した。
ふと気づく。ターニャが絶望の表情を浮かべて震えている。咄嗟に肩を抱き寄せ、自らの背後にかばう。せめて、この未来ある少女だけでも生かさなければ。そんな自己犠牲的な感傷が、前世の記憶が覚醒して以来、初めて頭をよぎった。
獣の荒い息と足音がすぐそこまで迫る。
その時だった。
「お嬢様、伏せろ!」
鋭い声と共に、横合いから飛び出してきた人影が、わたくしたちを突き飛ばした。ギデオンだった。
もつれるようにして地面に倒れ込むわたくしたちのすぐ横を、獣が凄まじい勢いで駆け抜けていく。そして、次の瞬間、轟音と共にその巨体が地面に消えた。
何が起きたのか理解できず、呆然と顔を上げる。そこには、巧みに木の葉や枝で偽装された、深い落とし穴が口を開けていた。
「……罠、ですか」
「元兵士の知恵でね。この森の獣道くらい、頭に入っとる」
ぶっきらぼうに答えながら、ギデオンはわたくしたちに手を差し伸べた。その手は、節くれだって硬かったが、不思議な温かみがあった。
「怪我はねえか、お嬢様。……ターニャも」
「……ええ。ありがとうございます、ギデオン」
わたくしは、素直に頭を下げた。彼の長年の経験と知恵が、わたくしたちの命を救った。論理やデータだけでは乗り越えられない現実が、この辺境には確かにある。それを身をもって知った。
「まさかお嬢様がターニャを守るとは、ね」
ギデオンは、わたくしがターニャをかばったのを、その目で見ていたらしい。彼の視線から、ほんの少しだけ、敵意の色が薄れたように感じた。
*
その夜、領主の館の談話室は、暖炉の火がパチパチと音を立て、穏やかな空気に満たされていた。
昼間の出来事が嘘のようだ。わたくしは改めてギデオンに礼を述べ、彼はそれに応えるように、ぽつりぽつりと村の歴史を語り始めた。痩せた土地との戦い。厳しい冬。王都からの重税。彼の言葉の一つ一つが、この土地の人々が抱える不信感の根源を、わたくしに教えてくれた。
「そういえば、エリアーナ様」
話の合間に、ターニャが思い出したように口を開いた。
「この辺りのヤギは、変な匂いの草を好んで食べるんです。他の草には目もくれないのに」
変な匂いの草。
その言葉が、わたくしのコンサルタント脳の片隅に、新たなデータとして記録された。ヤギが好んで食べる。それは、家畜にとって有益な、何らかの成分を含んでいる可能性を示唆している。後で調査する価値はあるだろう。
ギデオンとの間に、ようやく対話の糸口が見えた。ターニャという希望の芽も育ち始めている。この領地再生プロジェクトは、決して楽な道ではないが、確かな手応えを感じ始めていた。
そんな、ささやかな希望に満ちた空気を破ったのは、夜の闇を駆けてきた、一人の騎馬の使者だった。
王家の紋章を掲げたその男は、泥だらけのブーツで館の床を踏みしめると、息を切らしながら一枚の羊皮紙をわたくしに突きつけた。
「ヴァイスフルト公爵代理、エリアーナ様に通達! 近日中に、王都より監査役が派遣される! 貴女様の領地経営における不正の有無を、徹底的に調査するためである!」
監査役。
その言葉が、暖炉の火が作り出していた穏やかな空気を、一瞬にして凍てつかせた。