第1話 土と知恵
翌朝。わたくしは夜明けと共に、村で一番広く、最も荒れ果てた畑の前に立っていた。
初秋だというのに、吹き抜ける風が肌寒い。ノルドクレイの気候は、王都のそれとは根本的に異なるらしい。目の前に広がるのは、土というよりは砂と石ころの集合体。色は白っぽく、栄養素の欠乏を雄弁に物語っている。これでは、王国で主流の小麦が育つはずもない。データ通りの、絶望的なまでの痩せ地だ。
わたくしの後ろには、長老ギデオンと、数人の村人が怪訝な顔で控えている。わたくしの服装が、昨日までの公爵令嬢然としたドレスではなく、動きやすさを重視した実用的な乗馬服であることに、彼らが内心で何を思っているのか。その思考を分析したところで、現状の改善には寄与しない。今は目の前のタスクに集中すべきだ。
わたくしは革の手袋をはめた手で土をひとつまみ掴み、その感触と匂いを確かめる。前世の知識が、この土壌が強い酸性であることを即座に弾き出した。
「皆様、昨日申し上げた通り、土壌調査を開始します。この土地の潜在能力を正確に把握することが、我々の最初の道しるべです」
わたくしは持参した革袋から、いくつかの小さな布袋を取り出して見せた。土壌サンプルを採取するためのものだ。
「この土地は酸性が強く、一般的な穀物には不向きです。しかし、視点を変えれば、この環境に適した作物が存在します。例えば、ジャガイモです」
栄養価が高く、単位面積当たりのカロリー収量も高い。何よりこの酸性土壌でもたくましく育つ。現状の課題に対する、最も効率的かつ現実的なソリューションだ。わたくしの脳内では、ジャガイモ栽培による食料確保から、余剰生産分を加工、販売するまでの事業計画が、すでに詳細なフローチャートとして展開されている。
しかし、わたくしの提案は、冷たい一言によって却下された。
「芋、でございますか」
杖を突くギデオンの声には、侮蔑の色が隠しようもなく滲んでいた。
「そのようなものは、食い詰めた貧農か、物好きな貴族が食すもの。我々が領主様のために作るべきものではございません。それに、そのような芋を育てたところで、王都の市場では誰も見向きもしないでしょう」
なるほど。これは技術的な問題ではなく、文化的な障壁、あるいは固定観念という名のレガシーだ。彼はわたくしの提案を、領地の再生ではなく、貴族の道楽と解釈している。彼の価値観の中では「高貴な領主」には「高貴な作物、つまり小麦」こそがふさわしいという、非論理的な等式が成り立っているのだ。ステークホルダーの期待値調整に失敗している。これはコンサルタントとして初歩的なミスだ。
「ギデオン。わたくしは結果で示すと申し上げました。これは道楽ではありません。事業です。食料という、最も基本的なKPIを達成するための」
「けーぴーあい……?」
「……失礼。重要目標達成指標です。まずは、この土地で我々が生き延びるための食料を確保する。それが最優先事項です」
わたくしが理路整然と説けども、ギデオンの頑なな表情は変わらない。他の村人たちも、不安そうに顔を見合わせるだけだ。この膠着状態、プロジェクトのデッドロックだ。これ以上の交渉は不毛と判断し、わたくしは別のタスクに切り替えることにした。一つのアプローチが頓挫したなら、即座に次善策にピボットする。それがビジネスの鉄則だ。
*
その日の午後、わたくしは一人の案内人を伴って、村の裏手に広がる森へと足を踏み入れていた。
「エリアーナ様、こっちです! ターニャがいつもヤギを連れてくるとこ!」
わたくしの数歩先を、村の少女ターニャが弾むような足取りで進んでいく。彼女の知的好奇心に満ちた瞳は、この領地における数少ない「機会」だ。旧世代の固定観念に縛られない彼女は、わたくしにとって最初の、そして最も重要な協力者となるだろう。
「この先に行くと、冬でも雪が積もらない、不思議な場所があるんですよ~」
ターニャの言葉に胸が高鳴った。資料にあった「未調査の地熱資源」という記述。それがこれだ。
やがて木々が開けた場所にたどり着くと、そこにはターニャの言葉通りの光景が広がっていた。周囲の地面は冷たい土のままだというのに、その一角だけは、地面から陽炎のような湯気が立ち上り、触れるとじんわりと温かい。
「素晴らしい……」
思わず感嘆の声が漏れた。これは天然の温床だ。ここに光を通す素材――透明なガラスか、それに類するもので覆いを作れば、冬でも作物が栽培できる。いわゆるビニールハウス、この世界では「ガラスの家」とでも説明すべきか。
「ターニャ、ここは我々の秘密基地です。ここでなら、冬でも美味しい野菜が作れるかもしれません」
「本当ですか!?」
目を輝かせるターニャに、わたくしは頷いて見せた。ジャガイモの件で停滞していたプロジェクトが、再び動き出す。新たな可能性に満ちたこの場所は、まさに希望そのものだった。
しかし、その希望は、唐突に絶望へと反転した。
帰り道、森の木々の間から、巨大な影が躍り出たのだ。
森の重戦車の異名を持つ魔獣「ブルートボア」。見た目は猪。大きさは牛の二倍。栄養価の高いその肉は高級食材として知られるが、一度怒らせれば城壁すら破壊しかねないほどの突進力を持つ、極めて危険な存在。その赤い瞳は、明らかにわたくしたちへの敵意に満ちていた。
まずい。
脳内で瞬時にリスク分析が開始される。わたくしの戦闘能力はゼロ。魔法防御論は知識のみ。ターニャはただの少女。逃走したとて、ブルートボアの走る速度に敵うはずがない。生存確率は限りなくゼロに近い。
コンサルタントとしての分析が、死、という最悪のシナリオを弾き出した、その瞬間。
獣は地を蹴り、わたくしたちに向かって猛然と突進してきた。