第2話 二人だけの夜会
ノルドクレイへの帰路は、行きとは比較にならないほど、穏やかで、そして誇らしいものだった。
道中、立ち寄る町や村で、わたくしたちの噂はすでに広まっていた。「辺境の聖女」「救国の英雄」尾ひれがつきすぎているが、ノルドクレイという「推し」事業のブランディング戦略としては悪くない。
ノルドクレイの村の入り口が見えてきた時、わたくしは息を呑んだ。
そこに、五百名の領民全員が出迎えていた。彼らの顔には、わたくしが初めてこの地を訪れた時の、あの無気力な絶望の色はどこにもない。ただ、心からの笑顔と、歓声だけがあった。
「エリアーナ様! お帰りなさいませ!」
「我らの領主様が帰ってきた!」
「エリアーナ様っ!」
ターニャが駆け寄り、わたくしの横っ腹に飛びついてくる。ギデオンが、深く、深く、頭を下げる。
この光景。この熱狂。
わたくしたちで守り抜いた「推し」の姿。
胸の奥が熱くなる。
再び感じる、非効率な感情のバグ。
だが、今はこのバグを、心地よいとさえ感じていた。
*
その夜。
祝宴の喧騒が遠くに聞こえる領主の館のバルコニー。
わたくしは、出来立ての蒸留酒を注いだ杯を片手に、眼下に広がる領地の、ささやかな灯りを眺めていた。
隣には、レオンハルトが立っている。彼もまた、同じように夜景を見つめていた。
「……終わりましたね」
「ああ。終わった」
短い会話。その沈黙は、少しも気まずくなかった。
全てのプロジェクトが完了した今、この男との関係性を、どう定義すべきか。監査役と被監査役ではない。……共犯者、でもない。では何だ?
「エリアーナ」
彼がわたくしの名前を呼んだ。
何の肩書も付けずに。
戦のさなかに一度、そう呼ばれた気がする。けれど、あの極限状況での言葉は、熱に浮かされた夢の中の出来事のようだった。今この静寂の中で改めて紡がれたその響きは、鼓膜ではなく、わたくしの心を直接揺さぶった。
「貴女に、新たな提案がある」
提案? 新規事業の打診だろうか。わたくしは必死にコンサルタントの仮面を貼り付け、彼の言葉を待った。
「これまでの監査を通じて、俺は結論に達した。貴女という存在は、俺の信じる秩序を、根底から覆してきた。それと同時に、この国にとって、そして俺にとって、かけがえのない存在でもある」
彼は改めてわたくしの方へと向き直った。その鋼色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。片ひざをついた。その儀式めいた謎の行動は何だ……。
「公爵令嬢としてではなく、エリアーナという一人の女性を、俺の人生における唯一無二のパートナーとして迎えたい」
……は?
ぱーとなー?
思考が完全に停止した。
これはなんだ。プロポーズ、というやつか。前世の記憶を検索する。該当データ、極少。経験値、ゼロ。
「……申し訳ありませんが、お断りします」
反射的に、言葉が口をついて出た。
「恋愛とはリスクの高い、非効率な感情の浪費です。あの婚約破棄によって、わたくしはもう、人に期待するのはやめました。仕事の邪魔ですし……」
我ながら最低の返答だと思う。けれど、そうとしか言えなかった。
彼の表情が微かに曇ったが、すぐにいつもの平坦な表情に戻り、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ならば、これはどうだ」
差し出された羊皮紙。そこには、びっしりと、契約条項らしきものが書き込まれていた。
「これはエリアーナ・フォン・ヴァイスフルトと、レオンハルト・フォン・アードラーの間で締結される、終身の誓約書だ」
終身の、誓約書。終身の誓約。しゅうしん。
あまりにも不器用で、彼らしい言葉に、わたくしは返す言葉を失った。
次話、本日の11時10分に更新します。