第2話 推し(領地)との出会い
一週間後、わたくしは王都を後にした。
公爵家から受け取ったのは、最低限の支度金だけ。父は最後までわたくしに会おうとはしなかった。まあ、当然だろう。王家との婚約を反故にされた令嬢など、ヴァイスフルト公爵家にとっては不良債権以外の何物でもない。早期に損切りするのは、経営判断として正しい。
ガタガタと揺れる馬車。窓外へ目を向ける。併走する護衛の騎士たちが同情的な視線を向けてくる。彼らの目には、都を追われ、辺境の地に流される悲劇の令嬢が映っているに違いない。だが、わたくしの内心はそんな感傷とは無縁だった。
今回の領地経営は、もはや単なる左遷ではない。
人生を賭けた「新規事業立ち上げプロジェクト」である。
膝の上に広げた羊皮紙の資料に、わたくしは羽根ペンを走らせる。ノルドクレイ領に関する、ありったけのデータを持ち出してきた。
「弱みは痩せた酸性土壌、寒冷な気候、主要穀物の栽培に向かない。インフラ未整備、高い失業率、領民の低い士気。強みは……今のところ、見当たらず。機会。可能性は未調査の地熱資源、隣国への最短交易ルートとなる山道の存在。脅威は厳しい冬による死亡リスク、王都からの支援途絶、領民の非協力的な態度……なるほど」
ビジネスライクな呟きに、同乗している騎士が怪訝な顔をした。構うものか。わたくしは今、SWOT分析に夢中なのだ。このどうしようもない状況を、どうすれば黒字転換できるか。コンサルタントの血が騒ぐ。
人からの愛情は不確かだ。十五年の教育を受けても「面白みがない」の一言で捨てられる。だが、事業は違う。努力は、分析は、戦略は、数字となって明確な結果として表れる。裏切らない。裏切りようがないのだ。
だから、もう人に期待するのはやめた。
これからのわたくしの「推し」は、このノルドクレイ領だ。この愛すべき事業を、誰にも文句を言わせないレベルまで成長させてみせる。
*
王都を出て三日。街道は目に見えて荒れ果てていく。石畳の舗装は剥がれ、轍は深く、馬車の揺れはもはや拷問に近い。夕暮れ時、ようやくノルドクレイの村の入り口を示す傾いた木製の看板が見えてきた。その先には、そこそこ頑丈そうな木製の城壁。
馬車が止まり、門が開かれる。
その先に広がっていたのは、わたくしの分析を裏付ける、絶望的な光景だった。
崩れかけた家々。
人口は五百名程度。
生気の感じられない畑。
そして、汚れた衣服をまとった領民たちの、敵意と無関心に満ちた瞳。
領、と言うにはいささか語弊のある、少し防御を考慮した村だった。
出迎えたのは、村の長老ギデオンと名乗る老人だった。王国軍の元兵士。深く刻まれた皺と、頑固そうな顎が印象的だ。覇気のない顔でゾロゾロと出てくる村人たち。
「ようこそおいでくださいました、新しい領主様。このような吹き溜まりへ」
村長の言葉には、歓迎の響きなど微塵もない。
「どうせ、すぐに王都の華やかな暮らしが恋しくなって、お帰りになるのでしょうがな、お嬢様」
敵意剥き出しの言葉に、護衛の騎士が色めき立つ。わたくしはそれを手で制した。彼の言うことは、ある意味で正しい。今までの公爵令嬢エリアーナならば、この惨状を目の当たりにして泣き崩れ、一刻も早く王都へ帰りたがるだろう。
今のわたくしは違う。
荒れ果てた土地、疲弊した人々、積み上がった負債。見方を変えれば、すべてが「改善の余地」だ。伸びしろしかない。
わたくしは目の前の絶望的な光景を前にして、思わず口元が緩む。素晴らしい。これほどまでにやりがいのある「推し」は、そうそう存在しない。
わたくしの笑みに、ギデオンをはじめとする領民たちが、困惑と不信の入り混じった表情を浮かべる。彼らには、この状況を前に歓喜する新領主の思考回路が理解できないのだろう。それでいい。理解させる必要はない。結果で示せばいいのだから。