第1話 戦の足音
国境、という概念は、地図の上では一本の線に過ぎない。だが、現実は違う。それは、緊張という名の、目に見えない壁だ。
レオンハルト・フォン・アードラーは、ノルドクレイの北西に位置する丘陵地帯から、眼下に広がる隣国の領土を、その鋼色の瞳で冷静に観察していた。
彼の視界に映るのは、兵士という名の駒の、非効率な配置。練度の低い歩兵がだらだらと前線を押し上げ、補給線は伸びきっている。典型的な示威行動のための布陣。だが、その意図はあまりに稚拙、挑発的ですらあった。
風が鉄の匂いを運んでくる。
丘の麓で土煙が上がった。ノルドクレイの偵察に出ていた数騎と、隣国の先遣隊が接触したのだ。剣を抜く音が、遥か遠くから微かに聞こえる。意図的に引き起こされた、小規模な衝突。
レオンハルトの隣に控えていた部下が、緊張した面持ちで口を開く。
「団長! 応戦しますか」
「不要だ。即時撤退させろ」
レオンハルトは短く応えた。ここで戦闘を拡大させるのは悪手。宰相マイズナーの思う壺だ。あの女――エリアーナが、ようやく軌道に乗せたこの領地の秩序を、こんな茶番で乱されてはならない。彼女が築き上げた、脆弱だが確かな供給網と、向上しつつある領民の士気。それら全てが、この一戦で水泡に帰す可能性がある。それは許容できない。
彼の信じる秩序は、もはや王都の法典に記された条文だけではなかった。この辺境の地で、一人の女が必死に築き上げようとしている新しい秩序。それを守る。いつの間にか、それが彼の新たな職務規定となっていた。
「退くぞ。相手の挑発に乗るな。これは、戦ではない。情報戦の始まりだ」
その声は、いつもと変わらず平坦だったが、部下はそこに込められた絶対的な意志を感じ取り、無言で頷いた。
*
わたくしの脳内では、新たに開発した蒸留酒の、最適な樽熟成期間と販売価格のマトリクスが目まぐるしく展開されていた。生産コスト、輸送コスト、そして期待される利益率。数字は嘘をつかない。この事業は成功する。
極めて生産的な思考は、けたたましい馬蹄の音によって中断された。
領主の館の執務室に、王家の紋章を掲げた伝令騎士が転がり込んできたのだ。彼は、わたくしではなく、わたくしの背後に立つ監査役の姿を認めると、上ずった声で羊皮紙を読み上げた。
「レオンハルト・フォン・アードラー騎士団長に王命である! ノルドクレイ領の監査業務を即刻中止し、王都へ帰還せよ!」
思考が一瞬停止する。
なるほど。王都のステークホルダーたちが、わたくしの最も重要な経営資源――すなわち、この氷の騎士を、無力化しにかかってきたわけか。実に合理的で、的確な一手だ。彼を失えば、この領地は軍事的に無防備となり、マイズナー侯爵の思うがままになる。
わたくしの内心の分析をよそに、伝令騎士は有無を言わせぬ口調で続けた。
「これは、アルフォンス王太子殿下直々のご命令である! 即刻、ご準備を!」
終わった。
そう思った瞬間、わたくしの背後から、部屋の空気を凍てつかせる声が響いた。
「断る」
伝令騎士の顔が驚愕に染まる。わたくしもまた、信じられない思いで、背後の男を振り返った。
レオンハルトは、表情一つ変えずに、ただ、そこに立っていた。
「監査はまだ終了していない。よって、俺はここに残る。……それが、国王陛下より拝命した、監査役としての俺の職務だ」
王命への明確な反逆。
この男は自らのキャリア、という最重要資産を、この辺境の不採算プロジェクトに、全額投資するつもりか。なぜだ。期待収益率は、マイナスにしかならないはずだ。
理解不能。
この男の行動原理は、わたくしの知る、いかなるビジネスモデルにも当てはまらなかった。




