第8話 ギルドの壁
王都の宿屋の一室。窓の外では、日が落ち始め、街の灯りが一つ、また一つと点り始めていた。
ギルドとの交渉決裂。それは、わたくしの事業計画における最初の、そして致命的な頓挫だった。記憶を取り戻す前のわたくし公爵令嬢エリアーナであれば、ここで泣き崩れていたことだろう。だが、今のわたくしの脳は、すでに次善策の構築を開始していた。
ギルドという既存の流通プラットフォームに依存したのが間違いだったのか? いや、初期戦略としては正しかった。だが、政治的リスクの評価が甘かった。では次善策は? 販路の多角化だ。ギルドの外に市場はないのか? そんなはずはない。
わたくしは床に羊皮紙を広げると、インク壺と羽根ペンを手に、新たなビジネスモデルの構築に取り掛かった。
「既存の卸売モデルが機能しないのであれば、次はD2C――消費者への直接販売モデルを検討します。まずは、王都の富裕層をターゲットとした、会員制の高級サロンでの限定販売。次に、ギルドに属さない新興商人との提携による、ニッチ市場の開拓……」
わたくしの呟きを聞きながら、レオンハルトはただ黙って、その鋼色の瞳でわたくしの手元を見つめていた。彼の表情からは何も読み取れない。だが、その沈黙が、非難ではなく、むしろ純粋な興味から来るものであることを感じ取っていた。
この男は、わたくしの行動を理解できていない。だが、理解しようとはしている。それだけで、十分だった。
*
その夜更け。わたくしが新たな事業計画の草案を練り上げ、疲労困憊で椅子に深くもたれかかった時だった。
レオンハルトが、音もなく部屋を出て行ったかと思うと、しばらくして一枚の封書を手に戻ってきた。
「監査役の職務ではないが」
彼はそう前置きすると、その封書をわたくしの机に置いた。
「ここに、ギルドに属さず、王都で手広く商売をしている新興商人たちのリストがある。俺の部下が調べた。信頼性は保証する」
その言葉に、わたくしは目を見開いた。これは、単なる情報提供ではない。彼が、彼の持つ権力と組織を、わたくしのために使ったという、紛れもない事実だ。
「……なぜ、ここまでするのですか」
「非効率な妨害工作によって、公正な監査が歪められるのは、俺の信条に反する。それだけだ」
彼はそう言って、顔をそむけた。
「それと、もう一つ。ギルドに圧力をかけている黒幕は、シャーリー嬢の家ではない。ただ利用されているに過ぎん。本当の脅威は、宰相マイズナー侯爵だ。彼の名が、ギルドへの圧力の背後にちらついている。深追いすれば危険だ」
マイズナー侯爵。父からこの領地を与えられた時、その書類に署名していた男。点と点が、線で繋がり始めた。
*
翌日、わたくしはレオンハルトから受け取ったリストを頼りに、新興商人の一人と接触した。彼は「奇跡のハーブティー」の品質と、わたくしの提案する革新的な販売戦略に、目を輝かせた。
「素晴らしい! 是非、お取引を!」
彼が契約書に手を伸ばした、その瞬間だった。
店の入り口に、屈強な男たちが数人、音もなく現れた。彼らは一言も発しない。ただ、冷たい視線で、商人を見つめているだけだ。
商人の顔から、血の気が引いていく。彼は震える手で契約書を押し戻すと、わたくしに深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません。この話は、なかったことに」
政治的な圧力から、物理的な脅迫へ。敵の攻撃は明らかにその段階を引き上げていた。




