第1話 夢の終わり、事業の始まり
完璧な人生だった。
少なくとも、わたくしの人生は、そのように設計され、寸分の狂いもなく実行されてきたはずだった。
*
エルドリア王国。王宮の夜会で鳴り響くワルツの調べ。そこでは、王宮魔術師団の最高傑作と名高い、宙に浮遊する無数の光球で構成されたシャンデリアの光を乱反射させ、集う貴族たちの絹のドレスと磨き上げられた勲章をきらびやかに照らし出していた。甘ったるい花の香りと、上質な香水の匂いが混じり合う、むせ返るような空気。わたくしはそこにいた。
物心が付いたのは五歳。
そのときには教育が始まっていた。
あれから十五年。
わたくしがこの国の王太子妃となるべく教育を受けてきた歳月だ。歴史、法学、経済学、帝王学、そして王族を護るための最低限の魔法防御論、淑女の嗜みから隣国の王族の好物に至るまで、およそ必要とされる知識のすべてを脳髄に叩き込み、公爵令嬢としての責務を全うしてきた。
その集大成。今宵、婚約者であるアルフォンス王太子殿下の隣で、わたくしは完璧な笑みを浮かべて立つ。
すべては計画通り。すべては、わたくしの努力の賜物だ。
殿下が片手を上げ、音楽をとめた。彼が発言する際の合図だ。
彼はわたくしの目をまっすぐ見つめた。
「エリアーナ・フォン・ヴァイスフルト! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
アルフォンス殿下の声が、音楽を止めた大広間に朗々と響き渡った。
……は?
一瞬、思考が停止する。プロジェクトの前提条件が、最終プレゼンテーションの壇上で覆されるような、そんな理不尽な感覚。
ぷろじぇくと? ぷれぜんてーしょん? 知らない言葉が脳裏を駆け巡る。
わたくしの隣には、いつの間にか可憐なシャーリー男爵令嬢が寄り添い、アルフォンス殿下はその華奢な肩を抱いていた。
「殿下、それは、いかなる理由でございましょうか」
かろうじて絞り出した声は、我ながら驚くほどに冷静だった。感情の制御。それもまた、王太子妃教育の成果である。
「理由だと? お前はいつもそうだ! 正しくて、理屈っぽくて、堅物で、面白みがない! 私はもう、お前のような女にはうんざりなのだ! これからは、この愛らしいシャーリーこそが、私の婚約者だ!」
堅物で面白みがない。
その言葉が、わたくしの十五年間を値踏みする査定結果だった。貴族たちの侮蔑と憐憫が入り混じった視線が、無数の針となって突き刺さる。囁き声が波のように広がっていく。
「ヴァイスフルト公爵家のご令嬢も、ついにお役御免か」
「あの堅物では、殿下もお気に召さなかったのだろうな」
「ああ、なんてこと」
なるほど。これが社会的信用の失墜。これがブランド価値の暴落。わたくしという個人の市場価値が、今この瞬間にストップ安を記録したわけだ。理解はできる。だが、納得はできない。
ぶらんど価値? すとっぷ安? 再び知らない言葉が思い浮かび、心の中で狼狽する。
いや。
ここで感情を露わにすることは、ヴァイスフルト公爵家の名に泥を塗るだけだ。わたくしは背筋を伸ばし、スカートの裾を優雅につまむと、アルフォンス殿下とシャーリー嬢に向かって、教科書通りの完璧なカーテシーをしてみせた。
「殿下のご決断、謹んでお受けいたします。シャーリー様、殿下のことをよろしくお願い申し上げますわ」
感情を殺したその姿が、かえってわたくしの孤独を際立たせている。そんな気がした。構わない。極めて冷静に踵を返し、わたくしは優雅な足取りでその場を後にした。
*
王都の夜景が馬車の窓の外を流れていく。先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂の中、わたくしの頭の中では、先ほどの出来事が何度も再生されていた。
十五年。
物心ついたときから教育されてきた、わたくしの青春のすべて。
それは、たった一言の「面白みがない」で全否定される程度の価値しかなかったのか。
隣に座る侍女が、心配そうにわたくしの顔を覗き込んでいる。ただ、それだけだ。かける言葉も見つからないのだろう。無理もない。これは誰にも慰めようのない、わたくし個人の完全なる敗北なのだから。
ヴァイスフルト公爵家の壮麗な屋敷に戻り、自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。ベッドに倒れ込み、顔を枕に埋める。涙すら、出てこない。ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような、途方もない喪失感が全身を支配していた。
その時だった。
脳が灼ける。
熱い。
知らないはずの記憶の奔流が、濁流となってわたくしの意識に流れ込んできた。
ガラスとコンクリートでできたビル群。
キーボードを叩く音。
ホームに滑り込んできた山手線。
深夜のコンビニで買った味気ないサンドイッチ。
KPI、ROI、ボトルネック、コンプライアンス……意味不明な単語の洪水。
過労の末デスクに突っ伏し、二度と目覚めることのなかった、三十歳の女性経営コンサルタント。
あれはあたし。
紛れもないあたしだった。
前世の記憶――。
「……っ!」
あまりの情報量に、わたくしは短い悲鳴を上げた。
思い出した。
わたくしは、かつて現代日本の企業戦士だった。そして過労死した。その魂が、この異世界の公爵令嬢、エリアーナとして転生していたのだ。婚約破棄の強烈な精神的ストレスが、封印されていた記憶の蓋をこじ開けた。そう考えると筋が通る。
――そんなことあり得ない。
――いや、蘇った記憶は紛れもない事実。
――唐揚げの匂いすら思い出せる。否定する材料がない。
――ならば……コンサルタントとして、此度の危機を回避できる、かもしれない。
――まって。前世が三十で今生が二十。あわせて五十。は?
コン、コン、と控えめなノックの音。
いっきに現実へと引き戻される。
「お嬢様、旦那様からのお手紙でございます」
きたか。そう思いながら、侍女が差し出した封蝋付きの手紙を、震える手で受け取る。確実に屋敷の中にいる父からの手紙だ。顔も合わせないつもりなのか。
封の中には今回の不始末に対する慰謝料として、王国の北西端にある辺境領「ノルドクレイ」をわたくしに与える、と記されていた。
わたくしの顔を見た侍女が慌てて部屋から出て行く。
慰謝料?
与える?
痩せ細り、税も滞納している土地へ行けと?
「はっ」
事実上の厄介払いだ。
父の署名の横には、宰相マイズナー侯爵の署名も添えられていた。単なる行政手続き上のものだろうが、妙に記憶に残る。
絶望的な状況。
普通ならここで泣き崩れる場面だ。
けれど、わたくしの瞳から涙は消えていた。
公爵令嬢エリアーナの悲嘆は、冷徹な経営コンサルタントの思考に上書きされていた。ふと気づく。思い返せば、習ったことのない言葉で思考していることがあった。
婚約破棄という名の、プロジェクトからの強制解任。
王太子妃というキャリアパスの完全な喪失。
代わりに手に入れたのは、辺境領という名の、未開拓市場。
わたくしは、ほとんど無意識に呟いていた。
「……面白い。最高のディールじゃないか」