第8講 歴女と王子と知の探検と『川口慧海』
王宮の一角、冷たい風が吹き抜ける石造りの廊下。
その壁に貼られた一枚の張り紙に、私は思わず足を止めた。
『禁境越えの探索者、国外追放処分に』
——魔境イェルダン山脈西域、“聖域”に無断立ち入り。
「……はあ。やっぱり、こういうのって異世界でもあるんだ」
私は小さく呟く。
世界には、“入ってはいけない”場所がある。
でもそこにこそ、知が眠っている。だからこそ、越えようとする者が現れる。
そのとき、隣でぼんやり壁にもたれていたケイ王子が口を開いた。
「ねぇ、コヒロ。あのさ、“禁境”ってそんなにやばいの? 入ったらなんか見つかるの?」
「見つかるかもしれない。命を落とすかもしれない。……でも、“知りたい”って気持ちが、危険すら飛び越えることがあるんだよ」
私は、目を細めて王子を見た。
「王子。あんた、命を懸けてまで“知りたい”って思ったこと、ある?」
「えっ……なにそれ、哲学? メシは毎日知りたいけど?」
「バカ!!」
私は、王子の額を軽くはたいてから言った。
「今日はね、異世界じゃない、私たちの“現実世界”で——
国境を越えて、“禁断の地”にたったひとりで潜り込んだ男の話をしてやる」
「……また急に始まったな」
私はカーディガンの裾を翻し、いつもの講義ポーズで宣言する。
「名は、川口慧海!
仏典を求めて、ヒマラヤを越え、命を賭して“知”を手に入れた坊さんだ!!」
「またヤバそうなやつ来たぁー!」
王宮教室ーー
私は教壇に立ち、机の上からケイ王子を見下ろして、キメ台詞をぶちかます。
「名は、川口慧海!
仏典を求め、命を懸けて“禁断の地”に潜り込んだ、明治のスーパー坊さんだ!!」
「えー……またすごそうなやつきた……。でもさ、どこの話? その“ちべっと”ってのは異世界のどっか?」
「違う。これは私の世界、地球の話。チベットってのは、こったのアストレア大陸で言うなら……魔境イェルダン山脈のさらに奥にある、聖地みたいなとこ。
――高地で、外の者を完全に拒む“聖域”。当時、外国人が入ったら死刑だったんだよ」
「……は? それ、入ったら死ぬの前提の場所ってこと?」
「そう。慧海は、そこにたったひとりで潜入した。仏典を求めてね。
言葉も通じない。地図もない。ヒマラヤ山脈っていう、世界でも屈指の高地を越えて、現地人のふりして入ったのさ!」
「まじで命知らずじゃん。というか、それ僧侶のすることか?」
「するんだよ! “知”のためなら何でもする坊さんだったんだから!!」
私が語り終えたあと、教室には静かな余韻が残った。
珍しく、ケイ王子も黙っていた。
「……なあ、コヒロ」
不意に、王子がぽつりと口を開く。
「その人さ。河口……なんだっけ?」
「慧海。かわぐち・えかい」
「そう。慧海。……なんでそこまでしたの? その“仏典”ってやつ、命賭けてまで欲しいもんなの?」
私は、少し目を伏せて答える。
「……彼は、本当の“教え”を知りたかったんだ。
日本に伝わった仏教が、本当に仏陀の教えそのものなのか。
誰かが訳した言葉じゃなくて、“仏陀が語った言葉”を、自分の目と耳で確かめたかった」
「……ふーん。でも、それってさ……本物かどうかなんて、誰にもわかんなくね?」
「だからこそ、行ったんだよ。誰も確かめてくれないなら、自分が行くしかない。
それが、“知を求める”ってことの本質なんだよ」
「知を……求める……」
王子は、机の上に頬杖をつきながら、窓の外を見た。
「なんかさ、すごいな。コヒロの話って、たまに“かっこいい”通り越して、“遠すぎて怖い”んだよな……」
その目は、少しだけ、いつもより真面目だった。
数時間後――
王宮警備隊の慌ただしい足音が、廊下を駆け抜けていく。
「禁書庫に不審者!? 王子様!?」
その声を聞いて、私はすべてを察した。
走って駆けつけると、案の定だった。
王宮の禁書庫、その扉の前で、しょんぼりとうなだれる金髪の子のガキンチョ。
背中を丸めて、警備兵に囲まれているケイ王子が、私の顔を見るなり叫んだ。
「コヒロぉぉぉ!! やっぱダメだったぁぁ!!」
「おまっっっ……何してんだよ!!」
「いや、“禁境を超えた知の探求”ってやつを体感しようと……!」
「何を体感すんだ!! そこは“感銘受ける”だけで済ませとけ!!」
私は頭を抱えた。
しかも、手に持っていたのは――
「……それ、なんだ。なにを禁書庫から持ち出したんだよ……」
「……うん、なんかすごそうな古文書見つけたと思ったら……父上の若い頃の恋文の束だった……」
「それは禁じゃなくて、“封印”案件だわ……」