第5講 歴女と王子と未知の言語と『ジャン=フランソワ・シャンポリオン』
私はふと、気づいた。
……何故、異世界でふつうに日本語を話せているのか。
なぜ、目にする看板や本の文字が、難なく読めているのか。
それまで気にも留めていなかったが、冷静に考えてみれば、おかしい。
私はこの世界の言語なんて、当然ながら一切学んでいないはずなのに——。
「……あー、これ絶対、召喚時になんかつけられたな」
私はそう呟いて、額に手を当てた。
たぶん、“テキオー灯”とか“ほんやくコンニャク”みたいなノリのやつが、こっそり付与されてたんだろう。
魔導院、最低限のセーフティだけはちゃんとしてる……っていうか、そこだけかよ。
もうちょっとチートらしい能力、つけてくれても良かったんじゃないの? 攻撃魔法とか、瞬間移動とか、せめて飛行とか、予知能力とか。……まあ、いいけどさ。
私は、ちょうど近くにいたケイ王子に声をかけた。
「ねえ、この国の“公用語”って、何?」
王子は、呆れたように眉を上げる。
「はあ? お前、いつもこの国の言葉で喋ってるのに、知らねえの?」
「まぁ、そう。そもそも、この世界の“言葉”だっていう自覚がなかった。というか私が今何語で喋ってんかもわからん。自分は日本語で喋って、日本語で文字を書いてるつもりなんだけど。まぁ私の世界じゃないし」
「ったく、ありえねぇ……。まあいいや。ここ、トラディア王国の公用語は“トラディア語”だよ。で、母上の実家——アリエノール公国は“アリシア語”。大陸全域で通じるのは“マーシア語”。共通語みたいなもんだな。常識だろ?」
「いや、それ全然私にとっては常識じゃないからね……? 異世界なんだし……ていうか、やっぱヨーロッパっぽい構造してんじゃん……」
私がぼやくと、王子は目を丸くして首を傾げた。
「なにその“よーろっぱ”? またお前の世界か」
「そう。だから今日は、お前にちょっと特別な話をしてやろうと思ってな」
「……ん? まさか、また“講義”かよ……?」
「ふふん。そうだよ。しかも今日はな、未知の言語に挑戦し、“死者の言葉”を解き明かした男の話だ」
「うわ、出た。どうせまたその場で思いついたんだろ。講師としてどうなんだよ、それ……」
「うるせえ! こちとら即興に全振りした教育芸術だよ! それがわかれば世界が違う!!」
私は指を突きつけ、誇らしげに言った。
「というわけで、今日のテーマは——ジャン=フランソワ・シャンポリオン。
古代エジプト文明の封印された言葉、“ヒエログリフ”を解読した、“言語オタクの王”みたいな男さ!」
「“死者の言葉”を読むとか……お前の授業、ほんとに呪いの儀式みたいなんだよ……」
「失礼な! 今回はちゃんと“文字の尊さ”を学べる内容だからな! さあ、覚悟しろ王子。アンタの“言葉”への認識が、今日から変わる!!」
*
王宮内 教室──
私は、いつものようにカーディガンの裾を翻し、教壇の上に立った。
そして、胸に手を当て、ぐっと視線を王子に向ける。
「さあ、ここからは講義本番だ。よーく聞け、王子!」
「はいはい、わかったよ。……また誰か降りてくるんだろ? “言葉のゾンビ”みたいなやつがさ」
「ちがう。言葉の“考古学者”だよ。今日、私が教えるのは——古代エジプト学の父、ジャン=フランソワ・シャンポリオン!」
黒板には、
"Jean-François Champollion"とデカデカ書き、
私は深く息を吸い、声色を落として語りはじめた。
「1790年、フランスの小さな村に生まれた少年。名は、ジャン=フランソワ・シャンポリオン。彼は、幼いころから“言葉”に取り憑かれていた」
私は指を鳴らす。
「十歳になる頃には、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語。十三歳ではアラビア語、ペルシア語、コプト語まで読み解いた。“死んだ言葉”に、心から魅了されていたのだ……!」
「なにその、早口言語オタク……」
「黙っらっしゃらっぷ! 彼は、その“死んだ言葉”にこそ、古代人の声が宿っていると信じていた。そして運命の出会い——それは、“ロゼッタ・ストーン”だった」
私はチョークで空中に三つの層を描くように動く。
「ヒエログリフ。デモティック。ギリシャ語。この三つの文字が、同じ文章を記しているとされる石板。ナポレオン遠征の戦利品として、世に出回った不思議なロゼッタ・ストーンは、なんと“文字解読の鍵”だった!」
「ってことは……答え合わせができる?」
「正解! 当時、みんながそれに群がった。だが、誰も読めなかった。
なぜなら、“ヒエログリフ”は、ただの“絵”ではなかった。音と意味、象徴と発音が入り混じった、“神の言葉”だったのだっ……!」
私はゆっくりと、一本の指を掲げる。
「しかし、シャンポリオンは諦めなかった。彼は、コプト語を鍵にして、文字と音を照合し続けた。何年も、何十枚も、何百もの文献を並べ、地道にひとつずつ、パズルを解いていった」
「うわ……根気だけで勝ったタイプかよ……」
「解読ってのは大体そんなもんさ。
しかも、政情不安のフランス。資金も援助も少ないなかで、彼は家族に支えられながら、研究を続けた。
そして、1822年——彼は叫んだ!」
私は教室の床を踏みしめ、声を張り上げた。
「“Je tiens l'affaire !” その瞬間、古代エジプト文明の謎の言語、ヒエログリフは2000年の沈黙を破り、読み返されたのだ!!」
私は、両手を広げ、静かに締めくくる。
「彼は言った。
“言葉とは、死者の声を解き放つ鍵だ”、と……」
「うおお……」
話を終えると、私はふぅっと肩の力を抜いて眼鏡の位置をなおした。
カーディガンの袖口を少し整えながら、ケイ王子のほうを見やる。
……すると。
「……なんか、すげぇな、その人」
王子は、めずらしく目を伏せ、しばし黙っていた。
「石に掘られた“絵”を、何年もかけて読めるようにするって……。魔法とか使わないで、頭だけで? ひとりで?」
「まあ、家族や学者仲間も支えてくれてたけどね。でも、そう。最終的には、“読める”と信じ続けた彼の執念と知識が、壁を破ったんだよ」
私は椅子を降り、机の前に立って、言葉を選びながらゆっくり話しはじめた。
「王子。お前の国にも、“言葉”はある。書物も、記録も。だけどそれは、目に見える建物よりもずっと脆くて、失われやすい。だから、ちゃんと“読む”って行為は大事なんだ。……誰かの思いを、残すために。誰かの命を、無駄にしないために」
私は、ふと自分のスマホを思い出す。もう圏外で、何も見られないけれど。
「私たちの世界では、“言葉を読める人間”が、時代を記録し、過去と対話することで、文明をつないできたの。魔法でも、兵でもなく。——“読める”という力が、“遺す”という力になった」
「ふぅん……」
王子は頬杖をついたまま、ぽつりと言った。
「じゃあ、僕もそういうの、やってみようかな。“王様の言葉”ってやつ。僕が言ったこと、未来の奴らが“読んでくれる”ように、さ」
「へえ……かっこいいこと言うじゃん、王子様」
「ただし、なるべく文字数少なめで頼む! 難しい言葉ばっかだと、誰も読んでくれなさそうだから!」
「……そういうとこだぞ」
私は呆れつつも、少しだけ笑っていた。
*
翌朝、私は王宮の回廊でポンコツ魔導院の魔導師たちのざわめきに出くわした。
「謎の魔導文字が刻まれた石板が、魔導院の門前に奉納されておる!」
「また新たな予言か!? 呪いか!? いや、封印か!? あれは“聖なる象形”かもしれん!」
「念のため、封印結界を! 第一結界! 展開せよ!」
「いや、これは……古代アルカーン語!? 否! 新言語か!?」
騒ぎを聞きつけて走る侍従、震える魔術師、パニクる学者と学院生。
そんな中、私はひとつの石板を見つけた。
粗削りな板に、太い墨で——なにか、それらしき記号が。
「……“ぼくは ゆうしゃ けい みらいに のこす”? って…………日本語のひらがなかよ!」
しかもその下には、拙い象形のようなものが描かれていた。
棒人間が剣を構え、王冠をかぶって「ぼくがかみだ!」的なことを言っている。
私はため息をつきながら、王子の部屋へ向かう。
案の定、部屋の真ん中で身の回りを世話するメイドたちの前でご満悦に腕を組んでいる金髪のガキが一人。端から見りゃ見事なメイドハーレムだが、このガキンチョはそういうのがまだわかってないようだ。
私を見るとすぐに、
「ふっふっふ……どうだ? 僕の“未来への石碑”は。読めたか?」
「読めすぎてヤバかったからな。魔導院が結界張りかけてるしな、今……」
「えっ!? えっ!? なんで!? すごいって意味じゃなかったの!?」
「違ぇよ! ただの落書きを古代文字だと思われてんの! アンタ、マジで封印されるぞ?」
私は頭を抱え、深く、深くため息をついた。
「……なあ、王子。今日の話、覚えてるか? “言葉は人の声を後に伝えるもの”って。“歴史に残す”ってのは、こう……もうちょっと意味のあることを書くのね?」
「だってさぁ! シャンポリオンだって、ロゼッタ・ストーンから始めたんでしょ? これは僕の石板バージョン! 未来の誰かが読み解くんだよ!」
「……あのさぁ。最低でも“象形文字”の意味つけてからにしろって言ってんだよ……」
私は頭を抱えながら、心の中で唱える。
(……これが“書き残す文化”の発展だとしたら、この国、未来どうなるんだろ……)