第51講 歴女と王子と働く理由と『カール・マルクス』
その日の朝、私は珍しくまともな朝食をとっていた。
パンとスープ。コーヒー。静かな時間。
――だった。
「コヒロさん! 大変です!!」
扉が勢いよく開き、珍しくリョーキューが駆け込んでくる。
王宮文官が青ざめてる時点で嫌な予感しかしない。
「どうしたんですか。アホがまた料理長を泣かせたとか?」
「違います! ……いえ半分はそうですが!」
「やっぱりか」
リョーキューはきゅっと羊皮紙を握りしめた。
「最近、王都の労働者たちの様子がおかしいのです」
「おかしい?」
「ええ。街の職人や商人たちが“働く気力がない”“賃金が上がらない”“生活が苦しい”などと……」
「……そりゃ昔からだろ」
「ですが最近は“王国の構造に問題があるのでは?”と囁かれているのです」
私はコーヒーを吹きかけた。
「おい、やめろ。危険な単語が出たぞ」
「ええ……正直、治安維持局も気にしています」
「なんで私に相談するんだよ。私は他世界のオタクだぞ」
そこへ、ケイ王子がパンをくわえながら現れた。
「なんか外で“働いてもあんま変わんねぇ~”って言ってる大人多いぞ。
どうしたんだアイツら」
私は顔を押さえた。
このタイミング……避けられない。
ならば逆に“正しい知識”を薄めて教えるのが教育者の仕事だ。
「……よし王子。今日は“働く理由”の授業だ」
「は? 仕事の話?」
「そう。そして“社会”の話でもある」
私は呟いた。
「カール・マルクス ――人はなぜ働くのか」
「マ、マル……? なんか強そうだな」
「髭は強いが本人は学者だ」
「なんだよ学者か」
「学者になんだよ学者って言うな」
*
「さて、十九世紀のドイツ。
その頃のヨーロッパは“産業革命”で急激に変わっていった。
機械で大量に物が作れるようになった代わりに――」
「働く人が大変になった?」
「そう。長時間労働、安い賃金、貧しい暮らし。
機械は豊かさを生んだけど、働く人が豊かにならないという矛盾があった」
王子が眉をひそめる。
「なんで? いっぱい作れるなら給料も増えるんじゃね?」
「理屈ではそうだけど、現実は違った。
“誰かが得をする仕組み”の中では、働く人に利益が還元されないことが多いからだ」
「……なんかやな話だな」
「まあ、だからこそマルクスは考えた。
“人はなぜ働くのか”
“働くことで人は幸せになるのか”
“社会は誰のためにあるのか”――と。」
私は黒板に書く。
『人は、働くことで自分をつくる』
「マルクスが言ったのは、“働くことそのものが人間の尊厳だ”という考えだ。
ただの賃金のためじゃなく、“自分が世界に何を残すか”が大事だってことだな」
王子は意外そうに目を丸くした。
「……へぇ? 金の話じゃねぇの?」
「むしろ彼は“金の価値より、人の価値を見ろ”と言ったんだ」
「じゃあ、働く人を苦しめているものは何か?
マルクスは、社会の“仕組みそのもの”を研究した」
私は慎重に、言葉を選ぶ。
「マルクスはね、“社会はみんなで作るものだ”と言った。
王様だけのものでも、金持ちだけのものでもない。
働く人、支える人、作る人――みんなが参加して形になる」
「じゃあ、この国も?」
「もちろんそうだ。兵士、農民、職人、商人、医者、教師……“働く人が元気でいられる国”が一番強い」
「……そっか」
王子はぽつりと呟いた。
「でも現実は、働いても報われない人が増えると不満が溜まっていく。それが街で起きている状況だ」
「じゃあ、僕がなんとかするの?」
「王子は“なんとかする責任がある人”だからな」
「うっ……」
私は姿勢を正し、声を低くした。
「――“人は働くことで、人間になるのだ”」
ケイがビクッとする。
「“富は目的ではない。
人が幸せに生きるための“手段”である。
働く者が疲弊した社会は、いずれ自らを壊すであろう”」
「なんか……重いな」
「重いけど、核心だ。
マルクスが言いたかったのは“人を大事にしろ”ってことだよ」
「じゃ、今日のまとめだ。
“働く人が元気じゃない社会は危ない”
“社会はみんなで作る”
“王子はその中心にいる”」
「……僕、そんな大事な役なのかよ」
「そうだよ。
王子が“働く人にちゃんと目を向ける”だけで、国は変わる」
王子はしばらく黙って――
ぽそっと言った。
「……じゃあ、街を見に行く」
「え?」
「働いてる人の顔、見たことないし。僕、もっと知りたい」
その顔は、ほんの少しだけ大人の表情だった。
*
しかし――。
「古尋さん! 殿下が街のパン屋で“仕事を手伝う!”と言って生地を全部こねすぎて台無しに……!」
「うわぁ……」
「さらに、鍛冶屋の手伝いに行き、ハンマーで床を破壊し……!」
「うわぁぁ……」
「最後に市場で“働くって大変なんだな!”と叫びながら野菜を投げてしまい……!」
「なんでそうなるんだよ!!」
街の人々は苦笑しながらも、王子のドタバタを見守っていたらしい。
王子は戻ってきて、手と顔を泥と小麦粉で汚しながら言った。
「……働くのって、大変だな」
「うん」
「でもさ、働いてる人って……かっけぇな」
「それが分かったなら十分だよ、王子」
私は笑って、彼の頭をぽんと叩いた。
*
その日の王子の日記には、こう書かれていた。
“働く人がいるから、国は動く。
じゃあ僕は、みんなが働きやすい国にしたい。”
――マルクスもきっと、それだけ言いたかっただけだったのかもよ。




