第46講 歴女と王子と数式の魔術師と『レオンハルト・オイラー』
「いやもうムリっ! 数字とか意味わかんねぇ!」
王宮の廊下を、ケイ王子が叫びながら全力疾走していた。
その後ろを、アシュリー先生が優雅に(でも本気で)追いかけてくる。
「殿下、授業中に逃げ出すとは何事ですか!」
「だって算数とか頭痛くなるんだもん!」
「おや、頭を使うと痛むという新しい病気でしょうか?」
「ちょっと毒舌すぎない!?」
――廊下の角を曲がった先、たまたま書庫にいた私の前で、王子がドタッと転んだ。
「……痛っ」
「おい、廊下を全力疾走する皇太子とか前代未聞だぞ」
アシュリー先生がため息をつきながら近づき、私に視線を向けた。
「古尋さん、お願いできますか。殿下に“数学に興味を持たせる”ように」
「え、無茶ぶりすぎませんか?」
「あなたの“歴史語り”なら、少しは伝わるかと」
「……いや、私も数学は苦手なんですけど」
アシュリー先生は静かに微笑み、「ではよろしくお願いします」と言い残して去っていった。
残された私は、王子を見下ろして小さくため息をつく。
「おい、何で逃げた」
「だって! “微積分”とか“虚数”とか、言葉からしてもう怖い!」
「まあ、気持ちは分かる。……けどな、世界を“数字”で解いた天才もいるんだよ」
「えっ?」
「――レオンハルト・オイラー。
数学史上、最も多くの数式を生み出した“数の魔術師”だ」
*
『レオンハルト・オイラー――「神の代わりに世界を計算した男」』
黒板に仰々しく書いた文字にケイ王子は多少驚き気味である。
「十八世紀のスイス。バーゼルという学問都市に、ひとりの天才少年がいた。
彼の名はレオンハルト・オイラー。
神学者の父を持ちながら、“神より数字に魅せられた”変わり者だった。」
「……それ、怒られない?」
「実際、怒られた。けどオイラーは止まらなかった。
“世界の仕組みは数で書ける”と信じたんだ。」
私は黒板に書く。
e^(iπ) + 1 = 0
「これが彼の代表的な式――“オイラーの等式”。
たった一行の中に、**数学の5大要素(1, 0, e, i, π)**がすべて入ってる。
“世界で一番美しい数式”と呼ばれてる。」
「えっ、なにこれ……。見ただけで頭が爆発しそう」
「わかる。でもな、オイラーにとってこれは“音楽”だったんだ。
数字と記号が、完璧な調和を奏でる――
彼にとって“神”は、数式そのものだった。」
「オイラーは何でも数で考えた。
流体、天体、航海、建築、機械、地図、音楽理論、視覚の仕組み……。
彼の式は宇宙のすみずみまで届いてた。
しかも一生で書いた論文、800本以上。
生涯で2万ページを超えるってんだから、まさに“人類の関数”だな。」
「……え、そんなに? 一人で?」
「しかも、後半は失明してたんだよ」
ケイ王子が目を丸くする。
「えっ!? 目が見えないのに数学できるの!?」
「彼は“頭の中で見てた”んだ。
数式の構造も、図形の動きも、全部暗記してた。
まるで、脳が数の宇宙そのものになってた。
盲目のまま計算を続け、最後までペンを握り続けた。」
「オイラーはね、あらゆるものに“数の裏側”を見てた。
“神は数学で宇宙を設計した”と信じてたんだ。
だから、彼にとって数字は退屈でも難解でもなく、“世界の言葉”だった。」
私はチョークを置き、王子の目を見た。
「お前も言ってただろ。
“空を飛びたい”とか、“光を作りたい”とか。
それを可能にしたのも、全部“数”の力なんだよ。
数字は世界の設計図。理解できた奴が、未来を作るんだ。」
ケイ王子は腕を組みながら、しばらく考えこんでいた。
そして、ぽつり。
「……つまり、数字を制する者が、世界を制す?」
「だいぶ中二っぽいけど、まあ正解だ」
「よーし! じゃあ僕、数字マスターになる!」
「いや、まず九九から復習しろ」
「うぐっ……」
*
数日後。
アシュリー先生が私の執務室に現れた。
「古尋さん、あの……殿下が……」
「え、また逃げた?」
「いえ。数式を黒板一面に書き連ねてます。止まりません。」
慌てて教室をのぞくと――
ケイ王子が全身チョークまみれで黒板に向かっていた。
「この数字とこの数字をこうして……あっ! なんかすごいのができた気がする!」
「殿下、それは“円の面積”の式です」
「えっ!? 偶然だけど当たった! 僕すごくね!?」
私は頭を抱えながらも、思わず笑ってしまった。
(……ま、これが“興味を持つ”ってことだよな)
*
その夜。
王子の机には、チョークの粉が舞っていた。
羊皮紙に震える字で、こう書かれていた。
“数は、神が残した手紙”
私はそれをそっと見つめて、
「こいつはこいつなりに頑張ってんだな……お疲れ。ケイ王子」




