第43講 歴女と王子と孤独の星と『フィンセント・ファン・ゴッホ』
夕暮れ。
王宮の塔の上から見る空は、燃えるように赤かった。
その空を、ケイ王子はしばらく見つめていた。
「……なんか今日の空、泣いてるみたいだなー」
「ほーう。たまには詩人みたいなこと言うじゃねえか」
私は苦笑しながら、手元のスマホを取り出す。
「まあ、いい機会だな。――今日の題材は、この空を描いた男だ」
私は画面をタップし、ひとつの絵を見せた。
王子が目を瞬かせる。
「……なにこれ。ぐるぐるしてる……夜の空?」
「そう。“星月夜”。フィンセント・ファン・ゴッホって画家の作品だ。
絵の具を盛って、渦を描いて、まるで“空が呼吸してる”みたいに見えるだろ?」
*
「十九世紀のヨーロッパ。オランダの貧しい牧師の家に生まれた。
子どもの頃から不器用で、人の輪に入れず、でも“人の心”には誰よりも敏感な男だった。
彼は“人のために生きる”って言葉を信じすぎたんだ。」
私はスマホの画像をスライドしていく。
ひまわり、カフェ・テラス、糸杉、麦畑。
「最初は牧師を目指してたけど、うまくいかず、
貧民街で人々を助けようとしても理解されなかった。
彼は人間を愛してた。でも、人間からは愛されなかった。」
ケイ王子は静かに絵を見つめていた。
「……でも、なんでそんな人が絵を描いたの?」
「“描くことだけが、生きてる証だった”からさ。
彼にとって絵は、言葉よりも“生きたい”って叫びだったんだ。」
私は指で画面を拡大する。
「“ひまわり”って花、ただの花じゃない。
太陽を見上げる花を描くことで、“生きる希望”を信じたかったんだ。
けど、現実は違った。貧困、病、孤立――そして……」
声を少し落とす。
「彼は、自分の耳を切り落としてしまう。
自分の中の痛みを抑えきれず、狂気に飲み込まれたんだ。」
教室の空気が少し重くなった。
王子がぽつりと言う。
「……でも、こんなに綺麗な絵なのに、なんで死んじゃうんだ?」
「彼の才能が“理解される”のは、死んでからだった。
生きている間に売れた絵は、たった一枚。
けど、弟のテオだけは、最後まで信じ続けた。
――“兄さんの絵は、未来の人がきっと見つけてくれる”って。」
私は目を閉じて、声を落とす。
「――わたしは、愛することをやめられなかった。
世界が冷たくても、絵の具の中には太陽がある。
たとえ誰にも届かなくても、私は描く。
“生きること”は、“信じること”だから……テオ、ごめん……」
「……コヒロの憑依魔術、静かなのに熱いな……」
ケイ王子が呟いた。
その横顔には、どこか大人びた陰が差していた。
「……ゴッホって、優しい人なんだな」
王子が呟く。
「そうだな。優しすぎて、世界に向いてなかった」
「僕もさ……。なんか、ちょっとわかる気がするんだ」
「お前が?」
「うん。だって、僕も“王子だから”って言われて、
本当の友だち、いないもん」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
王子の声は、いつになく小さかった。
「……兄さんもいないし、母上もあまり会ってくれないし……。僕、笑ってるけど、時々めっちゃなんか寒いんだ」
「……ケイ」
「でも、コヒロがいるから、ちょっとだけ、あったかい」
そう言って笑ったその顔は、いつもよりずっと大人に見えた。
*
◆夜――アシュリー先生の部屋にて
その夜。
私はまたしても、あの苦手な扉の前に立っていた。
「あのー……アシュリー先生、ちょっといいですか?」
「どうぞ。――殿下のことでしょう?」
彼女はいつも通り冷静で、けれどどこか柔らかい目をしていた。
「殿下は……幼い頃、尊敬していた兄君を亡くされました。
そして、両親である王と王妃の間にも距離がある。
孤独を悟られまいと、いつもあのように明るく振る舞っておられますが……」
蝋燭の炎が、アシュリー先生の横顔を淡く照らした。
「――本当は、寂しいのです。
強がりの中に、いつも小さな隙間がある。
コヒロさん。あなたが、その隙間を少しでも埋めてくださると……信じています。」
私はしばらく黙っていた。
どう返していいかわからなかった。
ただ、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……責任、重いな」
「ええ。でも、あなたならできます。
だって、殿下が“笑って学ぶ”ようになったのは、あなたが来てからですもの」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「……いや、私なんか、ただの誤召喚された大学生だよ」
「ええ、けれど――“偶然”が王を導くことも、歴史にはよくあることですわ」
アシュリー先生は静かに目を閉じた。
その横顔を見て、私は小さく息を吐いた。
(……ゴッホの“光”って、たぶんこういうことなのかもな)
部屋を出ると、窓の外の夜空には、星がゆらめいていた。
それはまるで“星月夜”の絵のように、淡く揺れていた。




