第3講 歴女と王子と知の砦と『プトレマイオス1世とアレクサンドリア図書館』
王宮の南棟、西側の回廊を抜けた先に、ひっそりと重たい扉がある。
それが、王宮図書室の入口だった。
ギィ……と扉を押し開け、ひとりの青年がどさっと本を抱えて出てくる。
この国の学生服らしき服に、煤けた風のマント。埃を被った本を何冊も運び出しながら、彼はぼやいた。
「……毎度、王宮に出入りするのも骨が折れるや……。先生の持って来いと言った本はここにしかないしなぁ……」
その姿を廊下の片隅で見ていた私は、思わずぼそりと呟いた。
「……図書館に通うのに王宮に出入りしないといけない国、ってなによ……」
そしてすぐ隣では、金髪の王子があくびを噛み殺している。
「ふわ〜……朝から本なんて、よく読む気になるよなぁ。ねぇ、コヒロ〜。今日の授業ってさ、できれば10分で終わらない?」
私は、横目で金髪の生意気な少年――ケイ・D・チャールズ17世……つまりこの国の次期国王である王子を睨んだ。
「十秒で終わらせてやろうか、“今すぐ歴史から消える王子”って見出しでね」
「わーったよ、こえーなほんと。冗談だってば。……で、今日は何の話すんの? また戦争?」
私はふっと視線を戻し、先ほど通っていった青年の背中を見送った。
「なあ王子。この城の中以外に、図書館ってないの?」
「は? なんで?」
「いや、ほら。あの学生みたいな子、いちいち王宮まで通ってんのよ。資料目当てに。ってことは……城下には図書館がないの?」
「うーん……知らん。出版屋とか本屋はあるはず。てか、図書館とか必要? この城に、超立派な王宮図書室あるし。それだけで十分じゃね?」
私は一瞬、笑顔になりかけて、ぐっと拳を握った。
「……おっけー。今の発言、聞き捨てならない」
私は怒りと笑みの半々の顔に様変わりした。
「えっ? 何そのスイッチ入った顔やめてよ?
え、待って、まだ朝だよ!? 朝講義モード!?」
「講義じゃない。いや、講義だな。今日は叩き込む。“図書館とは何か”を」
「えっぐい……」
私は大きく一歩踏み出し、指を天に突き上げた。
「知れッ! “図書館”とはただの本の倉庫にあらず! それは、王が国を統べるための――知の砦!!」
「うわぁ、朝からでっかい声……」
「さあ、今日紹介するのは、王にして学者。ギリシャに生まれ、エジプトの王になり、世界最大の図書館を築いた知の守護者!」
私は、胸に手を当てて、静かに宣言した。
「プトレマイオス1世・ソテルーー剣と知と、ふたつを持ちて世界を導かんとした、偉大なる建築者の物語を、聞け!」
*
王宮内教室――
教室に入り、椅子に座るや否や、ケイ王子は机に突っ伏した。
「うーわ、やっぱ眠い……朝っぱらからって、いちばんダメな時間だと思う」
「寝るな。というか、いつでも授業のときは眠そうにしてるって他の家庭教師から聞いたぞ。
まぁ、今日の講義はな、王子にとっても、国にとっても、切実な話なんだから」
私は教壇の前に立ち、薄いカーディガンを軽く翻すと、深く息を吸い込んだ。
「王子、アンタさっき“この城に立派な図書室があるから、街に図書館なんかいらない”とかって言ったよな?」
「……うん。1つ十分じゃん?」
「じゃあ教えてやろう……。たった一人の王が、“街に知を残す”ために、命懸けで作らせた巨大な図書館の話をーー」
私は片手を胸に、もう一方を宙に差し出すようにして、語り始めた。
「プトレマイオス1世。かつて、世界を征服した英雄アレクサンドロス大王の腹心にして、彼の死後、エジプトを手に入れた将軍だ」
「おー、じゃあ戦うのが得意なタイプか」
「そう、もともとは“剣の人間”だった。けれど、彼にはもう一つ顔があった。“学者”だよ。
彼は歴史と哲学を愛した。
王になったあと、彼はただの王国じゃ満足できなかった。“知によって世界を支配する国”を、夢見たのさ」
私は教室の床を一歩踏みしめた。
「それは、ただ贅沢したいとか、王様ごっこがしたいとかじゃない。アレクサンドロスの死後、世界は混乱した。戦争だらけ。文化も分裂した。その中で、プトレマイオス1世は考えたんだ。
“知識こそが人をつなぐ。文化と言語を超えて、知を集める都市が必要だ”って」
私は黒板に一語書いた。
『アレクサンドリア』
「彼が建てた新しい都。海に面した港湾都市で、世界中から船が集まる要所。そこに“ただの王宮”じゃなく、“知の神殿”を建てた。それがアレクサンドリア図書館」
「図書館……って、そんな神殿的なもんだったの?」
「まぁそんな感じ。“ムセイオン”って呼ばれていた。今の“ミュージアム”の語源ね。図書館と研究所と神殿が合体したような施設。中には書庫だけじゃなく、学者用の宿舎もあった」
「へぇ……で、なんでそこまで本と知識集めたの?」
私は王子の問いを待っていたかのように、力を込めて言った。
「戦で勝つのは一瞬。けど、知があれば、未来を支配できる。文化も、宗教も、法律も、記録も、すべてを押さえて初めて、本当の“王国”になる。プトレマイオス1世は、そう信じたんだよ」
「王様がそんなに勉強熱心って……なんか想像つかねぇな」
「彼は変わり者だった。でもその変人さが、未来を残したのよ。アレクサンドリア図書館は、地中海世界最大の知の集積地になった。そこから数々の学者が生まれ、哲学ができ、医術が進み、天文学が整理され、世界は少しずつ“形”を得ていった」
私は黒板をバンバン叩きながら、王子に言った。
「本を一冊読むってことは、一人の人間の人生を覗き込むってことだよ。プトレマイオス1世は、それを何十万冊分、未来に残そうとした。つまり、何十万の命の知恵を、未来の誰かに届けようとしたってことさ」
ケイ王子が、少しだけ真剣な顔で言った。
「……じゃあ、今も残ってるの? その図書館?」
私は、すっと目を伏せて静かに言った。
「……残ってない。全部、焼かれたよ……。戦争や内乱、思想、まぁいろんな理由でね。
だけど、そこにあった“集めようとした意志”は、今も語り継がれてる。知の価値を、王が本気で信じたという、奇跡みたいな話としてね」
王子がぼそりと呟く。
「……じゃあ僕もさ。やってみようかな。“街の国民のための図書館”ってやつ! でっかくて立派なやつ作って、プレストマイオス1世みたく知識の塔みたいにする! あ、名前は“ケイ・グレート・ライブラリー”! どう?」
私は溜息まじりに呟いた。
「……その計画、肝心の“本”はどうすんだよ。見た目だけ無駄に立派なハコモノ行政にならんか……?」
その日の午後。
ケイ王子の謎のルートにより、突然の布告がされ、王城の会議室は騒然となった。
「よいか! 街の中心に、ドーンと国民のための施設を建てる! 塔は三本! 石材は白いのな! で、正面には輝くほどの石の扉!」
「流石ケイ王太子殿下! 素晴らしいお考えです!」
一人の家臣は不思議そうな顔で質問をした。
「ケ、ケイ王太子殿下……それは……何の建物を……?」
「決まってんだろ! 図書館! “未来を支配する知の砦”だぞ!? コヒロが言ってた!」
「は、はあ……しかし、建物と本の予算は……」
「細かいことは後だ! まず塔! それから立派な階段! 外観が大事なんだよ、外観が!」
「素晴らしい考え! 王太子殿下は国民の知すらも考えておられる!」
なんかあのアホ王子には全肯定のイエスマンがいるようだ……。
たぶんあのイエスマンが、王子の思いつきを即座に美文で提案書にし、国王がサラッと読んでとりあえずサイン、そして議会と宰相が“まぁ……陛下と殿下のご意向なら……”と押し通してまう……っていう無茶苦茶な構造か……。
*
そして、三日も絶たないうちに、城下ではすでに大工と設計士が奔走していた。
「立派な図書館つくるってよ! 白い石材、調達だー!」
「野郎ども! 王子の素晴らしい命令だ! 本気でかかるぞ!」
「おう、噴水もいるらしいぞ! “荘厳で知的な雰囲気”とかなんとか……」
「本棚? そんなの後だって! まずは塔! 金ピカ! 大理石! 映え!」
その騒動を、私は王宮の窓から街を見下ろしながら、紅茶をすする。
そして、静かに呟いた。
「……あの王子、“知は力”って言ったら、“塔の高さ”で知を語りだすとは……。塔の本来の目的は軍事用とか宗教とか監視とか展望用とか……あとは管制塔、通信塔、電波塔、給水塔、煙突くらいなもんだろ……図書館に必要か……?」
ティーカップを置き、窓の外の“空っぽの未来の知の砦”を見つめながら、私は苦笑した。アホは高いところが好きなんだな、と。
プトレマイオス1世の図書館には、金も塔もあった。
でも、残ったのは、そこにいた“人”と、“書かれた知恵”だった。
だから私たちはそれを語れる。
……まぁ、この王子の場合は、まず“本のある生活”からだ。
「ま、いいか。本は、建物じゃなくて人の中に建てるもの。塔を立てるより、国民が自由に一冊の本を読む方がよっぽど高いことを、あのアホ王子もいつか気づくだろうし……。ちょっと、どころかだいぶ気が遠くなるくらい“未来”の話だけど……」
風が吹いた。図書室のカーテンが揺れる。
私はぼそりと、もうひとつの言葉をこぼす。
「……知を集めることは、いつだって時間がかかる。けれど、焼けるのは一瞬。だからこそ、残そうとしたやつの話は、覚えとかなきゃね」
その言葉が空気に溶けると、どこからか王子の大声が響いてきた。
「なー! 塔の名前、ケイ・グレート・ナレッジ・キャッスルってのもよくない!? 略してKGNC!」
「……KGNCってアメリカ・テキサスのラジオ局かよ。『King's Great Nonsense Construction』とか言われる未来が見えるぞ……。もっとマシなネーミングないのかよ……」
私の予想以上に、城下町の国民の支持は得られた。
「やっと城下町に図書館が!」「学者たちや学生も助かるな」「あの王子様が発案したらしいぞ!」「雇用も生まれ、街に活気が戻ってきたな!」
……なんて声を耳にして、まぁ多少はあのアホ王子にしては良い事をしたのではないかと少し思いつつ、次は塔とは何かでエッフェルか? それとも内藤多仲でも教えるべきか……? いや、城の作りについて加藤清正、藤堂高虎、フランソワ1世、ロジャー・ド・モンゴメリー、ウィリアム征服王か……? と次の講義について考えだした。
しかし、どうせいつもその場で即興で決めるから意味はないが。