第35講 歴女と王子と白衣の天使と『フローレンス・ナイチンゲール』
王宮訓練場。
そこには、鎧の代わりに白い制服を着た兵士たちが並んでいた。
「どうだコヒロ! 王宮看護騎士団だ!」
胸を張るケイ王子。
私は腕を組み、眉をひそめる。
「……いや、なんで看護に剣が必要なんだよ」
「戦場で敵を殴ってでも患者を守る! 勇敢だろ!」
「それ、救護の方向間違ってんだよな……」
リョーキューが後ろで必死に拍手しているのが見える。
「殿下! この構想はきっと国の未来を変えます!」
「いや変わるけど、方向が違う!」
私はため息をついたあと、ふと口を開いた。
「――そういえば、お前クララ・バートンの話覚えてるか?」
「え? あー! なんか“救急馬車”とか“王宮箱”作ったやつ!」
「……まぁ、覚えてんな。よし」
私は黒板を立て、チョークを走らせた。
「じゃあ今日は、その同時代。もう一人の“戦場の天使”の話をしよう――」
*
「十九世紀、クリミア戦争。
泥と血にまみれた戦場に、ひとりの女性が現れた。
――フローレンス・ナイチンゲール。」
私は描いた地図の黒海のあたりを指し示した。
「彼女は貴族の娘だった。
でも、望んだのは舞踏会じゃない。“病人を救う現場”だった。
だが当時、女が医療に関わるなんて“恥”とされていたんだ」
「え、なんで? 女の人の方が優しいのに」
「そう思うだろ? だが当時の軍や貴族は“男の仕事だ”と鼻で笑った。
――それでも彼女は諦めなかった」
チョークを握る手に自然と力がこもる。
「ナイチンゲールは女王陛下の推薦状を手に、軍病院へ乗り込んだ。
兵士たちは伝染病と不衛生で次々死んでいた。
戦闘で死ぬより、“汚れた水と寝床”で死ぬ方が多かったんだ」
「えっ……そんなことで!?」
「そう。“清潔”の概念がなかった。
彼女は医者でも軍人でもないが、戦場で指揮を取った。
水を沸かせ! 寝床を洗え! 窓を開けろ! そして怪我人の手を取れ!」
私は黒板に「清潔・換気・記録」と書いた。
「これがのちの看護学の三原則だ。
さらに彼女は数を数え、記録し、統計を取った。
“死因の円グラフ”を作って報告した最初の看護師だ」
「円グラフ!? あのカラフルなやつ!?」
「そう、それを初めて描いたのが彼女だ!
兵士の命を数字で証明し、上官たちを黙らせた。
彼女は統計学で戦争を変えたんだ」
私はナイチンゲールに憑依したように語り続けた。
「彼女は“ランプの貴婦人”と呼ばれた。
夜、ランプを手に兵士たちの寝床を回り、
“彼女の前では死ねない”と兵士たちが言うほどだった」
「……そんな人、ほんとにいたんだ」
王子の声が、少し低くなった。
「いたとも。
彼女は昼も夜も働き続け、病に倒れながらも“看護学校”を設立した。
“知識と心で人を救う”――それが、彼女が残した最大の革命だ」
私は黒板に最後の一行を書いた。
“看護は、愛と理性の科学である。”
「……すげぇな。バケモンだな」
「そう、“献身の化け物”だ」
私は頷いた。
ケイ王子は椅子から立ち上がると、両手を叩いた。
「よし決めた! この国にも“病院”を作る!!」
「……え、いや待て、それは……」
*
次の日。
王都では“王立病院建設宣言”が発表された。
国民は歓声を上げ、新聞の号外まで出た。
……が。
「コヒロ! 助けてくれ!」
「……何だ今度は」
「医者がいない!! 医者はどこだ!?」
「は?」
「建物はできたけど、誰もいない!!」
「……ハコもの作って満足するな!!」
私は頭を抱えながら、ため息をついた。
「ナイチンゲールが聞いたら泣くぞ……教育もしろよ!」
「……そっか、学校も作らなきゃか」
ケイ王子はぽんと手を打つ。
「よし! “王立医療学院”も作る!」
「おいおいおい、どんどん増えてんぞお前の王国プロジェクト!」
だが――その横顔は、どこか誇らしげだった。
ナイチンゲールの灯したランプの光は、
今、この異世界でも確かに燃え始めていた。




