第30講 歴女と王子と“操る翼”と『ライト兄弟』
朝。食堂。
外から食堂へそのまま駆け込んできたやかましいのは、私の席の前に座るなり身を乗り出してきた。
「さあ! コ〜ヒ〜ロ〜! 昨日の続き〜! モンゴルフィエ兄弟の次! 早く“飛行機”の話をしろよ!」
私は苦笑しながら、
「待て。そう慌てるなよ。私にも食事をさせろ」
そう言いながらもケイ王子は「はやく! はやく!」と連呼していて気が散るばかりだった。
*
「さてーー」
と、私はチョークを持ち黒板に書き出す。
『ウィルバー・ライト オーヴィル・ライト』
「きた!!」
「……随分と乗り気だな」
「そりゃそうだろ! 空を飛ぶんだぞ!? 僕、もう“空王子”で歴史に残る準備できてる!」
「その称号、軽すぎて風に飛ぶぞ」
講義開始 ― ライト兄弟の生い立ち
「ライト兄弟。三男ウィルバーと四男オーヴィル。二人は……色々あってただの“自転車屋”だった」
王子は目を丸くした。
「……え? 学者とかじゃないの?」
「そう。大学出でもなければ貴族でもない。アマチュア飛行機研究者だ。けれど、彼らの家には別の土台があった。父は厳格な牧師。金銭欲よりも“節度と学び”を教えた人間だ。母は設計図を作る必要性を教えた。
そして、この兄弟は手を動かすことを好み、工具に親しみ、壊れたものを直すのが得意だった。妹キャサリンを含めて家族の絆は強く――一生独身を通した兄弟にとって、家族こそが最大の財産だった」
「……ただの町の青年なのに、空を……?」
「そこに至るまでが重要なんだ」
私は力を込めた。
苦難と転機
「兄のウィルバーは優秀な学生だった。勉学もスポーツも一流で、将来は大学へ進むと期待されていた。
だが、スポーツ中の大怪我で道を閉ざされ、鬱屈した日々を送る。進学も諦めた」
チョークを握る手に力が入る。
「彼は引きこもり、弟の印刷業を手伝う……ただの生活。けれど、その奥でウィルバーは考えていた。“このままでは終わらない”と」
王子が思わず口をつぐむ。
普段なら「ぷっ、ひきこもり~」と笑いそうな場面で、珍しく真剣な顔だった。
航空への挑戦
「1895年。ドイツのオットー・リリエンタールがグライダーの滑空実験中に墜落死した。その報せが、兄弟に火をつけた。
“まだ成し遂げられていない。ならば自分たちがやる”」
私は黒板に大きな三角を描いた。
『操縦(制御) × 安定 × 推進』
「彼らがまず注目したのは“操縦”だった。飛行はエンジンの強さじゃない。制御できなければ飛行とは呼べない。ここに気づいたのが最大の勝因だ」
実験と風洞
「兄弟は小さな凧で翼をねじる実験をした。箱をひねるようにして。――これが“翼ねじり”と呼ばれる、横方向の安定を取る鍵だった」
「箱をひねって……空を?」
「そうだ。単純な遊びの中に真理が潜んでいた。
そして彼らは人里離れたキティホークへ赴き、強風の中でグライダー実験を繰り返す。転び、砂にまみれ、失敗を重ねても諦めなかった」
私は身を乗り出し、チョークで風洞の断面を描く。
「やがて彼らは工房に自作の風洞を作り、二百を超える翼の形を試した。既存のデータは誤りが多かった。だから自分らで作り直したんだ。自転車屋の裏に、世界初の風洞があったのさ!」
教室の空気が一気に熱を帯びる。
ケイ王子は机を叩き、「くるか! コヒロの憑依魔術!」
と叫んでいる。
初飛行へ
「ライト兄弟は幾度も失敗しては原因を追求し、各所へ手紙を送ったり文献を借りてまで学んだ。時には兄・ウィルバーはずっと鳥の観察をしていた。
そして、飛距離に不満があった兄弟はエンジンも自作した。……まぁ正確には、自転車屋で働いていてたエンジニアのチャーリー・テイラーのおかげなんだが。
水平四気筒、十二馬力。小さくても必要十分だと割り切った。
さらにプロペラを“回転する翼”と再発明し、二基を逆回転させてトルクを打ち消す仕組みを作った……」
私は声を張り上げた。
「1903年12月17日! ノースカロライナ州キティホーク! 弟オーヴィルの操縦で――人類初の持続的動力飛行に成功する!!」
チョークを走らせ、黒板に“12秒・36メートル”と記す。
「その一歩は短い。だが――そこからすべての航空史が始まったんだ!」
私は一旦肩を落とし休めつつ、
「……だが、兄弟の成功はすぐに正しく評価されたわけじゃなかった。彼らの背後には、嫉妬と利権争いが待っていた」
私は黒板に、
“スミソニアン協会”
と大きく書いた。
「当時、アメリカ政府の支援を受けて有人飛行に挑んでいたサミュエル・ラングレー教授は、二度も機体を川に叩き落として失敗。だが、その後を継いだウォルコット会長は、自分たちが流した莫大な資金を無駄にしたとは認めたくなかった。
だから彼らは、民間の“自転車屋”が世界初を成し遂げた事実を必死に否定したんだ」
私はチョークで、
“改造エアロドローム=世界初と主張”
と書き足す。
「ラングレーの機体をカーチスという飛行家が勝手に三十箇所以上も改造し、飛ばして見せた。
するとウォルコットは『最初に飛んだのはラングレーだ!』と公表して、ワシントンの国立博物館に“世界初飛行機”として展示してしまった」
ケイ王子の口がぽかんと開く。
「……それ、ズルすぎね?」
「その結果、一般の人々まで“最初に飛んだのはラングレー”だと信じ込むようになった。
オーヴィルは抗議したが完全に無視され、兄弟の功績は奪われたまま。
……名誉が回復されたのは、初飛行から四十五年後の1948年。
オーヴィルが亡くなったその年、やっと“ライト兄弟こそ世界初”と公式に展示され、後世に認められたんだ。
まぁ世界初の有人動力飛行はグスターヴ・ホワイトヘッドっていう説もあるがなこっちは記録が不十分だからまぁ記録がしっかり残ってるライト兄弟が世界初ってわけだ」
*
しばらく沈黙のあと、ケイ王子は拳を握りしめた。
「……すげぇ。金でも肩書でもなく、ただの兄弟が、空を……。
……でもスミソニアンの連中、許せねえ! 改造して“最初”名乗るとか、卑怯すぎる!」
私はやれやれと、
「まぁ気持ちは分かる。だが忘れるな。ライト兄弟の背後には、妹キャサリン、メイドのキャリー・カイラー、工房のチャーリー・テイラーらや毎年助けてくれた郵便局長のウィリアムや航空技術のパイオニア、オクターヴ・シャヌートらがいた。
兄弟だけじゃなく、町の小さな手が空を作ったんだ」
王子は立ち上がって体全身を奮い立たせ、
「……僕もチーム作る! “空王子計画”だ!」
「やめとけ、その名は軽すぎる」
私は黒板にもう一行書き加える。
『 飛んだのは翼だけじゃない。“名もなき者が真実を証明する”勇気だ。』
*
その日の午後。
王子の掛け声で科学院の学者や職人たちが呼び集められた。
飛行学派の老学者・ペノールが静かに語る。
「……実は、数百年前までこの地には“鳥人”の種族が存在し、飛ぶ原理を記した書が残っているのです」
私は耳を疑った。
「は? この世界、異人族いたのかよ……」
老学者・ペノールは当然のように続ける。
「ええ。いましたとも。既に姿を見せなくなってから数百年は経ちますが今でも痕跡は各地で見つかっております」
私はまだ、この世界を全然知らないという事をまた一つ確信した。
「決まりだ! 命じる! “飛行研究会”を立ち上げる! 皆で空を掴むぞ!」
興奮の声に包まれる研究所。
私はただ腕を組んで呟いた。
(……おい、この世界、数百年分の科学者の苦労を飛び越えてねぇか……? 真機も、気球も……おかしいぞこれ……)
最後に私は黒板へ大きく書き殴る。
『 夢は、操れるとき初めて現実になる。』
王子はそれを見て、にやりと笑った。
「次は飛行機の続きだな! 世界を飛び回るんだろ!?」
「次回は安全講義も混ぜるからな。飛行には“メーデー”って言葉がつきものなんだ。そんときゃもう助からないゾ」
ケイ王子は引き気味に、
「……コヒロ、たまに怖いこと言うよな」
と、ボソッと言ってから、また飛行研究の識者や在野の研究家を集め出した。
「この世界、確実にあのアホ王子のせいか知らんが進んでる気がするな……」