第2講 歴女と王子と国民病と『軍医・森鴎外&高木兼寛』
王宮の食堂。広すぎる天井、凝りすぎた椅子、まぶしすぎる窓……なのに、出てきた昼飯は、想像以上に質素だった。
「……ああ、そう来たか」
銀の皿に盛られた、ハーブ焼きの鳥肉と芋。横に添えられた謎のスープ。そして、ちょこっとだけ乗っているのは、淡く褐色がかった雑穀のような何か。
「流石に、白米はないか……。でもこの麦っぽいの、料理の量に対して、やたら少ないな……パンは……?」
私はスプーンでその粒をすくいながら、ぽつりと独りごちた。
見た感じ、押し麦か? それともライ麦の混ざった穀パンを崩したやつか?
いずれにせよ、主食らしい主食が、申し訳程度にしか存在しない。
……この国の栄養バランス、大丈夫か?
「おい、なにブツブツ言ってんだよ」
遠くの席で鶏肉をがぶりと齧っていたケイ王子が、口の端に油をつけたままこちらを見る。
「いやね、気になって」
「なにが?」
「この国の、食生活事情とか、栄養状態とか。主食って何が多いの? 小麦? 芋? 肉食?」
「ん? そりゃ、場所によるだろ。北は芋で、南は小麦。でも貴族は基本、肉とワインが偉いと思ってるから、芋や麦は下々のもんだって顔するぞ」
「……はーん。ありがち」
私は頷いた。あの頃の日本と一緒だ。
そして、思い出したように尋ねた。
「ところでさ、今この国で流行ってる病気って例えばなにある?」
「は? なんだよ急に。あー……“沈息病”とか?」
「沈むに、息?」
「そう。なんか、体がだるくなって、足が動かなくなって、最後は心臓が止まるっていう。宮廷の魔術師も医者もよくわかんないから、“気の淀み”とか“星の巡り”とかって言ってるけどな」
……それ、ちょっと待て。
ほぼ脚気の症状じゃん。
私は、カトラリーを静かに置き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……なるほど。じゃあ、今日は“米と麦と命の話”だ」
「はぁ? 昼飯食いながら授業始めようとすんなよ! 食後にやってくれよ!」
私は、カーディガンの袖を翻し眼鏡をくいっと上げ、にやりと笑った。
「王子。お前に、“食事で約三万人死んだ話”をしてやる」
「なんだよその不吉な導入!? お腹が痛くなるんだけど!」
――だがこれは、大切な話だ。
知識と信念の違いを知らなかった国が、どれだけ多くの命を失ったか。
そして、食卓の中にも“歴史はある”ということを、この王子に叩き込まねばなるまい。
*
教室──食後
場所を移し、王宮内の講義室。
石壁に囲まれた質素な部屋に、重厚すぎる椅子と、無駄に長い机。
私は一人、ノートも何も持たず、教壇に立っていた。
「……ふぁああ〜〜……やっぱ食った後に授業とか、拷問だよなぁ……」
ぐで〜んと怠そうにしているのは、言わずもがなケイ王子である。
「そんな体たらくで、演説で国を救うとか言ってたのか……?」
「違う違う! 演説は“気合入った時にやるやつ”であって、食後はノーカンでしょ?」
「ノーカンってこの国のルールか? それとも王子の腹か?」
「うっ……胃袋の言い訳が通じないタイプかよ……」
王子は椅子に沈みながら、机に顔を半分突っ伏せる。
私は彼の視線の届く位置に立ち、静かに口を開いた。
「じゃあ、始めるよ。“食べ方”を間違えたことで、三万人が命を落とした話だ」
「……それ、昼飯の後にする話じゃねぇって」
「知識ってのはな、食後でも人を起こすの。いいか、ここから先は、“文豪”だと思ってるとショック受けるかもよ?」
「えっ、誰の話?」
私は、芝居のスイッチを入れるように、軽く目を伏せ、口調を切り替える。
「——帝国陸軍軍医総監、森林太郎! 医学を志し、ドイツに渡り、衛生学と細菌学を学んだ秀才! 帰国後、“森鷗外”の筆名で『舞姫』、『雁』、『阿部一族』、『山椒大夫』、『高瀬舟』などなど……近代文学にふさわしい名作を次々と発表し、文壇に名を連ねる一方、軍の頂点に立つ医官となった!」
ケイ王子が、伏せていた顔を上げた。
「……は? 軍人が文豪だったの?」
「そう! 文豪として名作を次々と書き、歴史に名を刻むもう一つの顔、陸軍医医長。
そして彼が軍医だった時代、日本陸軍には“ある病”が蔓延していた! 兵が戦場に出ていないのにバタバタ倒れ、手足が痺れ、ついには心臓が止まる。原因不明の病。それが江戸時代から続き、数々の医学者たちを悩ませた国民病の“脚気”だった……」
私はゆっくりと、軍服の裾を掴むような芝居をし、顔を上げて、声を張った。
「森林太郎は言った——これは感染症だ! 見えぬ細菌による“病”である! 麦飯のような不潔な食物はもってのほか! 白米こそが兵の誇り! 栄養の源! 我が軍に麦など、与えてはならぬ!」
芝居口調の声が石壁に響き渡る。
「……うわ、また演劇憑依術だ……ガチの上官だ……」
「ああ。でもね。彼の信じた“細菌病説”は、間違ってた。それでも彼は、変えなかった。“自分が学んだドイツの知識”こそが正しいと信じたから」
「……じゃあ、どうなったの?」
私は静かに答えた。
「二つの戦争で約三万人が、死んだ。」
空気が冷える。
ケイ王子の顔から、食後の気怠さが、すっと消える。
「戦争で死んだんじゃない。白米ばかり食わせたせいで、死んだ」
王子はしばらく口を開かなかった。
私は深呼吸し、目線を外す。
それから、再び王子を見て言った。
「……もちろん、彼だけの責任じゃない。
でも、“間違った信念”が、人を殺してしまうこともあるってこと。
それが“偉人”だったとしてもね」
私はそっと口元を引き締め、
「次はその間違いを、正した男の話をしよう」
ひと呼吸置いて、静かに語り出す。
「——そしてもう一人。この“謎の病”に立ち向かった軍医がいた。帝国海軍軍医総監で医学者……『ビタミンの父』"高木兼寛"」
王子が目を細める。
「海の兵士も同じ病気にかかってたの?」
「そう。でもね、彼は疑問に思ったのよ。“なぜ陸軍だけ大量に死ぬのか。なぜ西洋では、この病が少ないのか”と。
彼は森鴎外とは別でドイツではなく、イギリスで学んでいた」
私はカーディガンの裾を翻し、軍医の芝居へと移る。
「——原因は、細菌じゃない。私の仮説は、“食事に問題がある”。麦飯と干し魚、野菜を混ぜた食事を出してみよう。
そこで生まれたのが『よこすか海軍カレー』。脚気対策として海軍の兵食改革を行った際にカレーを取り入れた!
ついでに金曜はカレーとずっと海の上にいる海兵たちに曜日感覚を分からせ、海軍から広まり、インド生まれイギリス経由で日本に入ったカレーライスは日本の国民食にまでなった! 私も辛いカレー大好き!!」
「最後のコヒロの食趣味は余計だろ……」
芝居口調から戻り、私は王子に向き直る。
「まぁそ細菌説を否定し、食に問題があるなんて言った時点で、当時のドイツ医学が最新最高で主流の日本の医学界からは大バッシング!
“病気に飯で対抗するなんて非科学的だ”
“気でも狂ったか?” って、海軍内でも袋叩きだった」
「じゃあ、それで諦めた?」
「彼だって医学者だが軍人だぞ。そんなもんで引き下がらなかったよ。彼は、自腹でデータを取った。実験航海を組み、乗組員の一部にだけ麦飯・魚・野菜を配り、残りは白米中心の食事にした。そして……」
私は指を一本立てる。
「白米の方だけがバタバタ倒れた」
「……っ!」
「麦飯食べてた方は、一人も発症しなかった。
それでようやく、“あれ? 飯のせいだったのでは?”って空気になったんだよ」
王子は沈黙していたが、ふと小さく呟く。
「……じゃあ、その海軍の人の方が……すごいの?」
「まぁすごい。知識より、結果を見たから。
そして、自分の信じることを、反対されても、笑われても、貫いたからね。
彼はこう言った。“病気を診ずして病人を診よ”って。教科書じゃなく、目の前の兵士を見てた。だから、救えたんだよ。
そして、バランスの良い食事こそが健康に一番であると……。まさに"ビタミンの父"。
更に彼は英国医学を広めるための成医会講習所! 貧しい患者のための有志共立東京病院! 日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所! それぞれ今の東京慈恵会医科大学、東京慈恵会医科大学附属病院、慈恵看護専門学校として現在もある!」
私はいったん息を整えて、今一度まとめるように語る。
「同じ病気と向き合って、一方は“学んだ知識”を絶対だと信じて約三万人を死なせてしまい、もう一方は“目の前の現実”を信じて、命を救った。それが、陸軍医長の森鴎外……いや森林太郎と、海軍医長の高木兼寛」
静寂。
ケイ王子は腕を組み、ぽつりと言う。
「……それって、どっちが“いい王”なんだろうな」
「それを考えるのが、アンタの仕事だよ、王子」
私はいたずらっぽく笑って見せた。
が、次の瞬間——
「っはっくしょん!!」
王子が盛大にくしゃみをして、鼻をすすった。
「ふぇ……麦病だったらどうしよう?」
「それは……私は知らん。医者ではないからな。特にこの世界は、どんな病気があるんだか全くわからん。医務室にでも行け……」
私は額を押さえる。
……けれど、この国で“魔病”と呼ばれる脚気に似た症状が、今も解決されていないなら——
そのうち、あの陸軍医の過ちと海軍医の考えが再発見されるかもしれない。
そんな予感を、私は少しだけ、胸に抱いていた。
まあ、その時までこの王子が生きていれば、だけど。
*
翌朝。王宮の食堂は、なんだか朝から騒がしかった。
「麦を増やせー!」
「麦だ麦!」
「王子殿下のお言葉だ! 麦が命を救うって!!」
厨房前で騒ぎ立てる王宮の騎士たち、侍女たち、果ては大臣見習いまでが皿を手に叫んでいる。
厨房内では突然の麦料理注文に、料理長含め全員大混乱。
その中心には、堂々と立つ金髪のちびっ子王子。
「そうだぞー! 今こそ麦の時代だ! 麦が王国を救う! 麦増量しろぉーっ!」
……うん。確かに昨日、“麦を取り入れたバランスの良い食事が大事”とは言ったけども……。
私は静かに、食堂の片隅から彼を見て——額に手を当てた。
「……あれ、私、確かに量とかの問題じゃないって言ったっけなぁ……? 熱くなりすぎて何言ってたか、忘れてしまった……やっぱり講義って準備とかが必要かも……」
そして呟く。
「……人は過去に学ぶしかない。でも、それを未来に活かせるかどうかは、“今どこを見てるか”で決まる。
森鴎外が言った、“現在は過去と未来との間に画した一線”ってね……まさに、今をどう選ぶかが、命を分けるんだよ。
……麦だけじゃなく、目の前の“アンタ”もね、王子」
講義の効果はあった、とは言い難い。
けれど、心に何かは残ったらしい。……いや、残ったんだろう、多分。麦が。
それでも私は、紅茶を一口啜りながら思った。
——まぁこの調子じゃ、次の講義も、また“麦”のごとく、腹にずっしりくるだろうなぁ。
後日、流行っていた沈息病が多少改善されたという話を小耳に聞いた。