第16講 歴女と王子と献身の天使と『クララ・バートン』
ある日の午後。王宮の教室に向かう途中、私はふと足を止めた。
門の向こう、城下の通りを見下ろすと、倒れた子どもを心配そうに囲む人々の姿が見える。けれど——誰も急いで運ぼうとしない。ただ、誰かが薬師を呼びに走ったのを見届けて、また動かずに見守っている。
私は思わず呟いた。
「……この世界、救急車とか、ないのか……?」
「ん? なにそれ?」
隣から、ケイ王子の寝ぼけ声が飛んできた。どうやらこっそり背後についてきていたらしい。
「“救急車”ってのはね、緊急のケガ人とか病人をいち早く運んで、命を救う車のこと」
「……ふーん。魔導戦車みたいなやつか?」
「いや違う。“戦う”んじゃなくて、“助ける”ために急いで駆けつけるやつ。サイレン鳴らして、真っ赤な車体で、街を疾走する……」
「……え、そんなに急ぐ必要ある?」
私は言葉を失った。
「あるに決まってるでしょ!? 一分一秒で命が変わることだってあるんだよ!?」
「うーん、でも、こっちじゃ“怪我したら薬師呼べ”って感じだし……それが普通だと思ってた」
「……それ、普通じゃないから!!」
私は思わず額を押さえた。
この国の衛生水準や医療体制の遅れに関しては、うすうす感づいていた。
でも、“急いで助ける”という発想そのものが、ないとは……。
「じゃあ今日はその話だ。“誰よりも早く現場に駆けつけて、誰よりもたくさん命を救った”——そんな女性の話をしよう」
私は振り向き、王子の肩を掴む。
「戦場の“天使”と呼ばれた、献身の象徴。アメリカ赤十字を広め、命のシステムを作った——クララ・バートン、いってみようじゃないか!」
「……え、天使って……ほんとに羽生えてたの?」
「いや、違う違う! 人間でそういう異名! でも、彼女の行動は神がかってたって意味!」
「……それ、面白そうかも」
ようやく乗ってきた王子を連れて、私は教室の扉を開けた。
——この国に、“助ける仕組み”の意味を叩き込むために。
*
王宮教室──
カーディガンの袖をまくり、私はいつものごとく講義台に仁王立ちした。黒板には太字でこう書く。
『クララ・バートン――戦場に降り立った“天使”』
「さて、王子。今日の主役は、ただの看護婦じゃない。銃弾飛び交う戦場のど真ん中に突っ込んでいって、“命をつなぐ”仕組みを作った、救急の母——クララ・バートン!」
私は手を広げ、芝居がかった動きで板書の前に立つ。
「クララ・バートンはアメリカで教師をしていた女性だった。しかも気が小さい。……でも、彼女は気づいちゃったんだよ。“教えるだけじゃ、子どもたちの未来は守れない”ってね。病気、貧困、戦争……世の中には、もっと直接的な痛みがあった」
「……で、戦場に行ったの?」
「そう。南北戦争が始まったとき、彼女は物資を集めて最前線に向かった。男たちが怖気づくような戦場に、たった一人で」
私はクララの言葉を模すように声を低くする。
「『負傷者たちのそばに、誰かがいるべきだと感じた。彼らの声を聞いて、手を握り、水を与え、痛みに寄り添う者が』」
「……女の人が、戦場で?」
「そう! 当時それは“常識外”だった。けれど彼女はやった。“看護婦”という役職すらない時代に、傷だらけの兵士に手を差し伸べた。銃弾が飛び交う中で、包帯を持って走って、泣き叫ぶ兵士の傍で祈りながら止血して、死者の名前を記録して家族に知らせた」
王子が思わず息を呑んだのがわかる。
「つまり……助けるってのは、気持ちだけじゃダメってことか」
私は黒板の文字を指差しながら、ケイ王子の目をまっすぐに見据えた。
「王子。クララ・バートンは“困っている人を助ける”っていう当たり前のことを、当たり前にするための、ある“システム”を作ろうとしたんだ」
「システム……って?」
「例えば“誰かが倒れたら、すぐ駆けつけて治療する”とか、“災害で被害が出たら、安全な場所と食料を届ける”とか。“助ける”って気持ちだけじゃ限界がある。人数、物資、時間、全部足りなくなるだろ」
王子は少し考えうなづいた。
「たしかに……」
私はチョークで黒板に大きく三つの言葉を書く。
『速度・連携・信頼』
「この三つが揃って、初めて“救急”は機能する。クララは、個人での活動に限界を感じたからこそ、“組織”を立ち上げた。それが──アメリカ赤十字社!」
「赤……十字……? それ、国が作ったんじゃなくて……?」
「違うんだな。クララ個人が立ち上げた。
彼女はヨーロッパのほうで“赤十字”という運動が起きていることを知った。
そして、アメリカに帰ってから政府に働きかけた。
『国境を越えて、困ってる人を助ける仕組みが必要です!』って。
そのときのラザフォード・ヘイズ第19代大統領との会談は……まぁ、失敗したがその程度でクララは諦めなかった。認めさせるために何年も政治家どもに働きかけまくった」
「マジで……ひとりでそんなことまで……」
「その後も粘り強く説得、説得、説得! そしてチェスター・A・アーサー第21代大統領にも説得しついに成功! ただの“ボランティア団体”じゃなく、議会で“制度”として正式に政府に認めさせて、戦争でも災害でも動けるようにした! つまり、王子。クララ・バートンは“救急車の出動システムの原点”そして“アメリカ赤十字社”をつくった女なんだよ!!」
「……っ!」
「怪我人が出たら、誰かが判断して、誰かが車を出して、誰かが処置して、誰かが記録して……!
その“全部”が、誰かの手で最初に作られる必要があった!
クララはそれを、自分の手で、現場から、叫びながら作った……!」
目を輝かせたケイが言った。
「クララが立ち上がったんだな!」
「……は? そのネタ、私の元の世界のやつだぞ……偶然か……?」
私は少し呆気にとられて困惑をしたが、すぐに「コホン!」と咳ばらいをし、声を落として静かに言葉を置いた。
「“赤十字の天使”と呼ばれた彼女の働きは、世界中に広まって、国境を越えて“人道支援”って概念になった。
それが今も残る、“災害時の緊急支援”、“戦時の非戦闘員保護”、そして“救急システム”の礎になったんだよ」
ケイ王子は、しばらく黙っていた。 教室には一瞬だけ静寂が降りる。
私は、クララ・バートンが信じた“人を助ける力は、制度にして残すこと”という思想を胸に、ひとつ息を吐いた。
「……すげぇな。なんか……クララって、女なのに本物の“英雄”って感じがするな」
「英雄に男も女も関係ないさ。その行動と勇気と力が世界を変える英雄になるんだよ」
しんと静まり返った教室で、ケイ王子がぽつりと呟いた。
その目は珍しくまっすぐで、笑っても皮肉ってもいなかった。
「……なんか、戦うんじゃなくて、助けるっていうのはさ。それって、一番強いやつじゃないとできない気がする……」
「……ほう……」
私は少し驚いた。
いつもならここで何かしら茶化す王子が、今日は妙に素直だった。
私はにやりと笑う。
「ようやく少しは“痛みを知る強さ”に気づいたか、ケイ王子よ」
「……まあ、王になったら、誰かが倒れても“誰かが助けるだろう”って顔しちゃう気がしてさ。でも、そんなとき、クララみたいに“じゃあ私が行く!”って言える王……かっこよくね?」
「まぁ……理想だけならね!」
私は肩をすくめ、最後にチョークを走らせる。
『希望を持ち続けることが重要。 希望を持って前進することが、希望を持って前進することが大切 by クララ・バートン』
「理想だけじゃ、命は救えない。だから彼女は、叫んで、前に進んで、作って、残したんだ。仕組みとしてな」
*
そして翌朝──
異変は、朝の王宮で起きた。
「……“急病者搬送騎士団”……?」
私は読み上げた報告書に、思わず目をこすった。
急いで向かった王宮中庭には、妙に張り切った騎士たちが……何故か手押し車や荷車に乗って行進の練習中。
その先頭には、白い布をマントみたいに肩にかけたケイ王子の姿。
「我ら急病者搬送騎士団は! この王国のどんな急病にも全力で駆けつけることを誓うぞー!!」
「ちょっと待てぇ!」
私は全力で駆け寄って、王子の背中を引っ叩いた。
「お前……クララ・バートン学んで、そこなのかよ!?」
「だって制度作れって言ってたし、僕なりに考えて……」
「なんで布切れまとって布団に乗せる式なんだよ! 騎士団とか名乗ってるのに馬車もねえじゃん!」
「大丈夫、王国軍総将軍のシバール・ジョシュア将軍に病人役やってもらって、みんなでリレーして運ぶんだ!」
「遊びかッ!! ……ん? 一応訓練になるか……? いや、どちらにしてもおかしい! 常識人っぽいシバール将軍もなんでわざわざ参加してんだ!?」
私は頭を抱えて、深いため息をついた。
でも——
「……まぁ“助けたい”って気持ちだけは、間違ってなかったんだろうけどな……」
私はゆっくりとカーディガンの袖を直し、王子が率いる荷車騎士団を見送りながら、小さく首を振り、やれやれと肩をすくめた……。