第15講 歴女と王子とプロレタリアと『小林多喜二』
王宮の厨房が、朝からざわついていた。
「だからさー! この厨房、換気も悪いし作業台も低いって言われてるでしょ!? ちゃんと! 改善しなきゃダメじゃん!」
「王子殿下っ……いつもはアホなのにどうして急にそのようなご指摘を!?」
「この国の労働環境が気になって夜も眠れなかったんだよ!!」
……嘘つけ。
私は呆れてその場へ向かった。案の定、ケイ王子が給仕頭に軽く叱られていた。
「……あんた、また何を思いついたの」
「いや、そのさ……昨日、王宮図書室で“トラディア鉱山作業記”っていうの読んだらさ、なんかすげー可哀想になってさ……! 暑いとこで働く人とか、夜中にパン焼いてる人とか! なんか僕がちゃんとしなきゃって思って……」
はい出ました。王子の感情だけ突っ走るタイプの“正義感”。
「気持ちはわかるけど、急に叫び出しても労働条件は改善しないし、むしろ現場が混乱するからやめなさい」
「……えー。でもさ、“誰かのために怒る”のって、カッコよくないか?」
その言葉に、私は少しだけ黙ってしまった。
“誰かのために怒る”。その言葉を、誰よりも本気で信じて、命を削った男がいたことを思い出す。
そして、静かに言った。
「じゃあ教えてあげようか。“誰かのために怒って、死んだ作家”の話を」
「……死ぬほど怒ったの!? なにそのヤバいやつ! 聞く!!」
……軽いノリで受け取られるのが不安すぎるけど、まぁ、聞くだけでも前進か。
私は王子をいつもの教室へと連れていく。
「じゃあ今日の講義テーマは——『小林多喜二』。言葉で国を変えようとして散った、革命の作家だ!」
*
王宮教室。
ケイ王子は椅子に浅く腰掛け、腕を組みながらこちらを見ていた。好奇心の炎はまだ消えていないらしい。
私はカーディガンの裾をまくり、立ち上がり、黒板に、黒板に“プロレタリア”の文字を殴り書き、ゆっくりと語り出す。
「今日のテーマは、“プロレタリア”って言葉から始めよう」
「プロレ……何それ? プロっぽい名前だけど、強そうな職業?」
「……惜しい。ある意味“生きるために戦う人々”のことだ。
語源はラテン語の“プロレース”——子どもを産む者たち。古代ローマで、財産を持たず、労働力と子どもしか社会に提供できなかった人々の呼び名だった」
「うわ……いきなり重いな……」
「それが近代になると、資本家に雇われる“労働者階級”を指す言葉に変わった。工場で、港で、鉱山で。身体ひとつで働いて、食べて、疲れ果てて、時には理不尽に捨てられる。でも、彼らには“物語”がなかった。“声”が届かなかった」
「……さて。そこに現れたのが今日のテーマの人物。“プロレタリア文学”……そしてそれを体現し、命を削って書き続けて散った男——小林多喜二だ。
小林多喜二は、そんな人たちの側に立って言葉を書いた作家だった」
静かに言った私の声に、ケイ王子が不思議そうな顔をする。
「でもそれの、なんで“危険”だったんだ? 貧しい人を助けようって考えなんだろ?」
「そこなんだよ。いいか、王子。今でこそ“みんな平等に”とか、“労働者を守れ”って思想は普通に語れるけど、当時——つまり昭和の初期、日本じゃそういう考えは“国家を否定する”って見なされてた」
「国を否定……?」
「ああ。当時は“共産主義”ってだけで、“国家転覆を企んでる危険人物”として、特高——特別高等警察って組織にマークされた。多喜二もその一人だったんだ」
私はチョークを置き、両手を組む。
「そして、1933年、小林多喜二は特高に捕まって、その日のうちに……拷問死させられた。正式な裁判もなしに、捕まって、殴られて、蹴られて……内臓が破裂するほどに痛めつけられて。そして、家族のもとに“心臓麻痺”の紙切れ一枚が届いた」
「えっ…………」
王子の顔が引き締まる。私は続ける。
「だが、多喜二が本当に伝えたかったのは、そういう“思想”よりももっと根っこにあることだったはず。……人間が、人間として扱われない社会への、怒りと悲しみ。声を上げられない人の代わりに叫ぶ、それが“文学”の力だったんだよ」
私は、黒板にチョークで書く。
『「おい!俺ら、地獄さ行ぐんだで!」』『蟹工船』より
──海の上で過酷な労働を強いられる人々を描いた多喜二の代表作。』
「この物語は実在する労働者たちをモデルにしていた。名前を変え、舞台を変えても、その“痛み”はリアルだった。だからこそ、多喜二の作品は社会を揺らした。読み手の心を、鋭くえぐった」
私はしばし黙り、そっと口元に手を当てる。
「小林多喜二の何がすごいかって、“誰かのために怒る”って姿勢をずっと捨てなかったこと。黙ってれば、もっと楽な道もあった。でも、彼は選ばなかった。言葉で、現実に殴りかかった」
「……じゃあさ、結局、その怒りって……意味、あったの?」
「それを決めるのは、今の私たちだと思う。少なくとも、多喜二が“命をかけた声”は、時を越えて読まれている。それだけでも、私は意味があったって思ってるよ」
私はカーディガンの袖をまくり、黒板にもうひとつの言葉を書く。
『現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである」──森鷗外
ケイ王子が反応した。
「森鴎外! 前にやらかした軍医作家って奴!」
「よし、ちょっとずれてるけどちゃんと覚えてるな。彼も、ある意味“言葉と現実のせめぎ合い”に立っていた作家だった。過去と未来の“線”に立ったとき、自分がどちら側を向いて生きるか。……多喜二は、過去にも未来にも背を向けなかった」
「……そうか……」
講義室の空気が、少しだけ重たくなった。
でも、それがいい。
重さを知らずに叫ぶ“善意”より、知ったうえで覚悟をもつ“優しさ”の方が、はるかに強いんだから。
「……ねえ、コヒロ」
珍しく王子が、真面目な顔でこちらを見ていた。いつもの皮肉も茶化しも、今は影を潜めている。
「その人さ。小林多喜二って。……痛そうなこと、いっぱい言ったんだろうな」
「そうだな。自分が一番痛かったと思うよ。でもそれでも、“自分の痛み”じゃなくて、“誰かの痛み”にずっと言葉を向けてた。だから、残ったんだと思う」
ケイ王子は寂しそうな顔をして、
「……なんかさ、僕も王子とか偉そうにされてるけど、実は何も知らないなって……思っちゃった」
ぽつりと漏らすように言ったその声が、かすかに震えていた。
私は少しだけ視線を緩めた。
――けど、そこで止めてたまるか。甘やかしは教育の敵だ。
「だからこそ、学ぶんだよ、王子。“強さ”ってのは、誰かの叫びを知ったそのあとに、どうするかで決まるんだからな」
「……くっそ。ちゃんと刺さるの、ムカつくな」
ケイはむくれたようにそっぽを向いた。が、その横顔は、どこかいつもより大人びて見えた。
*
そして、翌日──
「市民代表会館の前で、王子が演説を……?」
朝の王宮に、信じられない報告が飛び込んできた。
慌てて駆けつけた先にいたのは——
王冠を斜めにかぶり、即席の演説台の上に立つケイ王子。
その手には雑に綴られた“市民の声を聞くぞBOX”なるダンボール箱。
「よーし、お前たち! 困ってることは全部この箱に入れろー! あとは僕が読む! 改善! 変革! 革命だーー!!」
市民たちはポカンとしている。護衛兵は顔を青ざめさせている。
私は、頭を抱えた。
「……お前……王族だろ!! 革命起きたらまずお前が狙われるぞ!?」
「でも! 市民の声を拾う王って、ちょっとカッコよくない?」
「革命云々を市民に説く前にまず宰相に相談しろーーーッ!!」
私は大声で怒鳴り、ケイ王子の襟首をつかんで引きずり下ろす。
ああもう。何かを学ぶたびに、必ず何かをやらかすこの王子。
でも、まぁ——
「……せめて、“誰かの痛みに目を向ける”その方向性だけは、間違ってなかったと思いたいわ……」
カーディガンの袖を直しながら、私は小さく溜め息をついた。




