第12講 歴女と王子と名声の責任と『エドワード・ジョン・スミス船長』
その日、私は城の中庭で紅茶を飲んでいた。
穏やかな朝だった。少なくとも、あいつが現れるまでは。
「おーい、コヒロー! ちょっと見てくれよ!」
元気よく駆けてきたケイ王子は、例によって不吉な空気をまとっている。
「今、政務室を改装してんだ! 黄金の玉座に、塔みたいな書棚、天井には僕の肖像画ドーン! どう? カッコよくね!?」
……想像した瞬間、私は紅茶を吹きそうになった。
「……なにその、“虚飾”のテーマパークみたいな部屋は」
「は? “王の部屋”ってのは、まず見た目で圧倒しないと! 豪華で! 強そうで! それっぽい! それがカリスマってもんだろ?」
「うわぁ……出たな“それっぽい”病……」
私は溜息をついて立ち上がる。
「王子。今日はそんな“見た目と名声に酔った時代”が、どんな結末を迎えたかって話をしてやるよ」
「え、なにその不穏なフラグ回収……僕のことじゃないよな?」
「違うけど、わりと近い。今日の主人公は、20世紀初頭の“名声を極めたベテラン船長”――エドワード・ジョン・スミス。完璧なキャリア、敬愛される人柄、全乗客が信頼を寄せた。でも彼が最後に乗ったのは、“絶対に沈まないと言われた船”だった」
王子が眉をひそめる。
「絶対に沈まないってやっぱフラグ……?」
「まぁ。そしてスミス船長は、その沈みゆく船とともに、最後まで逃げずに、責任を背負いきった男でもある」
「……逃げなかったのか」
「逃げなかった。今日は“失敗”の話じゃない。“責任と矜持”の話をしてやる。王の器、ってやつにちょっとは触れな?」
*
王宮の教室。
私はいつものカーディガンを羽織り、教壇に立つ。
ケイ王子は椅子にだらしなく座りつつも、どこか神妙な顔つきだった。
「さて、王子。今日の講義は、私のいた世界の海の話だ“大丈夫だと思われていたもの”が、“一夜にして崩れる”という、非常に現実的な話だよ」
「ふーん。で、誰の話?」
私はチョークをとり、黒板に名前を書く。
Edward John Smith
──ある船の船長。沈む船と運命を共にした男。
「彼の名前は、エドワード・ジョン・スミス。最も華やかで、安全と信じられていた“豪華客船タニタニック号”の船長だった。その船は、“どんな嵐でも沈まない”と言われていた。ホワイトスター・ライン社の最新の技術、完璧な設計、豪華な設備……そして、各界の名だたる者たちから新天地を夢見た移民たちが乗っていた」
「おぉ。……それ、なんかカッコいいじゃん。勝ち組って感じ」
「そう。まさに、当時の“勝ち組の象徴”だった。そしてその船に選ばれた船長こそ、スミス。
長年の無事故記録を誇るベテランで、“あの人が舵を取るなら安心”と皆に言われていた」
「なるほど、英雄だ」
「……だった。だが、その船は、旅の途中で“氷の山”にぶつかる。破損し、裂け、そして――夜の海に沈んだ。逃げ場のない、最悪の災害だった」
「……えっ。沈んだの?」
「沈んだ。“絶対に沈まない”と言われていたのにな……。
乗っていた人々は、パニックに陥り、救命用の小舟は全員分はなかった。会社の甘い考えだった。
その混乱の中、スミス船長は、自分の命を差し置いて、女性と子どもを優先して避難させ、自分は、沈みゆく船に残った」
「…………」
私は、黒板にひとつだけ言葉を書いた。
名声とは、時に人を縛る。
「誰も、スミス船長を悪くは言わなかった。
彼は誠実で、責任感があって、だからこそ、最後まで“その場に残った”
逃げなかった。船の責任者として、逃げられなかった。
でも――“沈まないはずだった”という思い込みと彼の責任ではない設計の甘さが、結果として多くの命を奪った。その数、1,514名」
「うわ…………」
私は真剣な目で王子を見つめ、
「王子。責任ってのは、そういうもんだ。“自分が正しいと思って進めばいい”ってのは、王様ごっこのうちは許される。でも、背負うものが多くなるほど、“選択”の重さも増していくんだよ」
教室の中に、しばし静寂が降りた。
私が語り終えると、ケイ王子は腕を組んで天井を見上げたまま、小さく呟いた。
「……スミスって人、逃げなかったの、すごいな。僕なら……逃げてたかも」
「ああ。たぶん、逃げてただろうな。というかーー逃げ出した責任者もいたが、これは別の機会にしようーーしれっと船底から抜け出して、“王族優先だろ?”とか言ってそうだ、お前」
「……否定できない……けど、さ」
王子はぼそっと続けた。
「間違えたのに、みんなの前で立ち続けたってことだろ? 沈むってわかってて。誰にも責められなかったって、やっぱ“その場にいた”からだよな」
私はその言葉に、わずかに口角を上げた。
「そう。“その場にいた”ってだけで、人は救われることがある。
責任っていうのは、謝ることでも逃げることでもなく、“最後まで、逃げないでいる”ってことなんだよ」
「……逃げない王様、か。カッコいいけど……うわ、重ッ」
「そう。重いんだよ、王ってのは。だからこそ、笑って逃げ出せるうちは、王じゃない。選択した結果を、自分だけのせいじゃなくても“引き受ける”覚悟を持ってからが本番だ」
私は黒板を見やりながら、静かに言った。
「どれだけ完璧でも、どれだけ名声があっても、誤算や失敗は起こる。
そのとき、責任者が“逃げるか”“残るか”で、人々の記憶はまるっきり変わってしまう。
スミス船長が評価されたのは、逃げなかったからだ。沈んでも、残った名は、“信頼に殉じた人間”だったからだよ。――彼と乗員たちの雄姿に敬礼」
*
講義から数時間後。
午後の日差しが差し込む王宮の中庭。
そこにある噴水池から、どこか誇らしげな声が響いた。
「いいか、諸君! この小舟は決して沈まん! なぜならこの王子、エドワード・ケイ・スミス17世が舵を取っているからな!!」
噴水の縁で本を読んでいた私は、顔を上げて、頭を抱えた。
「……なーにやってんだあいつ……」
そこには、庭師の作業用の木舟を勝手に持ち出して、噴水に浮かべ、なぜか王冠まで被ったケイ王子が仁王立ちしていた。
「進路よし! 速力最大! 未来はこの航路の先にあるっ!!」
バランスを崩して、グラッ。
――ドボォン。
小舟がひっくり返る音とともに、派手に水しぶきが上がった。
「ぶはっ!! けほっ!! しょっぱいっ!? いや、噴水だから塩はねぇのか!? ……助けろぉぉ!!」
私が無言でタオルを投げつけると、王子はずぶ濡れのまま、池の縁で息を整えて言った。
「……はは。見ただろ、コヒロ? これが“逃げなかった”男の覚悟……!」
「いや、お前普通に落ちただけだし。というかそもそも、逃げる以前に、乗っちゃいけない舟に乗るなって言ったよな?
あと噴水池で船に乗るアホ見たことねえよ。水浴びぐらいにしろ。
船に乗りたきゃ、川か海へ行け……あっやっぱ行くな! 史上でもなかなかない恥の崩御が起きる」
「どっちだよ! 僕は王になるために立派な英雄になるんだぞ!」
私はぐいっと濡れた王子の耳を引っ張る。
「沈んだ後で偉そうにするな。しかも午後ティーの時間に。アホ王子め」