第一章 1日目
■0時間経過 異変
涼しい。というか少し寒い。
外は初夏だというのに、鍾乳洞内部はヒンヤリしている。かすかに空気の流れは感じるが、風の音もしないし鳥の声も聞こえない。静かでとても涼しい。
別に来たくて自分から来たわけではない。職場の上司に有給休暇を消化しろと強制された。チームに相談すると今日なら特にイベントがないから良いんじゃないか、と言われたので今日有休を取得することにした。
やりたいことがあったわけじゃない。昨日、どうやって暇を潰そうかとあれこれ考えていたら、最近バイクに乗っていないことに気がついた。せっかく買ったバイクだ。天気も良さそうだというか相当暑いらしい。涼しいところに行ってみようとネットを検索したら、山梨県のこの鍾乳洞がヒットしたってわけだ。
仕事はつまらない。ITエンジニアと言えば聞こえは良いが、システムのお守りだ。ちゃんと動いているかどうか毎日チェックする。時々利用部門から問い合わせやらクレームやらが来るので対応する。別に俺が悪いわけでもないのに怒られることが日常的にある。トラブルが発生すると無限に残業になる。理不尽な職場だ。
そもそも正社員じゃない。派遣社員だ。三流大学の情報系学部を卒業し、一旦はSIer<エスアイヤー>と呼ばれるシステム開発を請け負う業者に就職したものの、新入社員研修が終わってそろそろ現場に配属されるな、というころ、『業績が悪化しているのでリストラして社員を半減します』と言われてクビだ。第二新卒と名乗れればまだ再就職もできただろうが、2ヶ月しか在職していなければ実務経験はゼロで就職浪人と変わらない。再就職先なんて見つからなかった。
『未経験可』で拾ってくれたのが登録型の人材派遣会社だった。ITの世界にも、人なら誰でもいい、なんていう仕事があるものだ。そういう仕事にいくつかありついてなんとか食いつないで経験を積んだ。
残業少なめで仕事をしながら、毎日勉強した。少しでも条件が良い仕事に移れるように。
努力が実ったのか、職務経歴と言えるものがある程度できた成果か、30歳を過ぎてようやく大手企業の仕事に派遣された。それまで安かった時給もようやく業界平均に到達した。そのときは正直嬉しかった。
仕事の内容は業務システムの運用だった。大手企業の支社で、本社との間のデータのやりとりをするシステムがちゃんと動いているかどうか確認して、トラブルがあれば対応する仕事。
俺が頑張っても派遣先の会社が儲かるわけじゃない。金を稼いでいる部門の仕事が滞りなく進むようにサポートする仕事だ。つまり裏方だ。だからかな? 理不尽に怒られることが多い。
残業は少なめだが、希にトラブルが発生すると解消するまで帰れない。定期的に夜勤や休日出勤がある。その分時給も割り増しになる。ボーナスのない派遣社員だが、割増賃金のおかげで2年も継続するとちょっと余裕ができた。
そんなわけでバイクを買った。車やバイクは維持費がかかるから買うもんじゃない、なんて友人は言う。でも、職場で年配のおっさんやおばさんがツーリングの話をしているのを聞いていて、妙にうらやましくなって買ったんだ。確かに乗らなくても毎年税金や保険が掛かるけど、250ccなら車検がないしガソリン代も大型車よりずっと少ないから、懐具合と相談しながら時々乗ることにしたんだ。もちろん中古車だ。
格好いいウェアなんて買えないから、古着屋でそれっぽいのを買った。新品はヘルメットだけだ。
免許は学生のときに取っておいた。親戚のおじさんが資格マニアでよく解らない資格をたくさん持っていた。
「資格のあるなしで仕事の範囲が変わることもある。人との会話の種にもなる。お前も取れるときに取っておけ」
そう言われて、そんなものかと思い、取れる資格は取っておいた。普通自動車運転免許、普通自動二輪、情報処理技術者、アマチュア無線。
今の派遣業者に入る前の一時期、ちょっとだけ土建業をやったときに小型車両系建設機械の運転の業務に係る特別教育ってやつも受けた。小型の重機なら運転できる。実務やる前にITの仕事に戻ったけど。
思えば人生ずっと貧乏だ。親父がどんな人かよく知らない。両親は早くに離婚して俺は母親に育てられた。母は安い賃金で働きづめだった。奨学金がもらえたので大学には行けたが、ようやく就職して母に楽をさせられると思ったら、すぐにリストラされてしまった。母もショックだったろう。癌になってあっさり死んでしまった。金がなくて病院に行くのが遅れたのが致命的だ。
兄弟もいないし、親父とも連絡を取っていない。後見人が必要なときはおじさんが名前を貸してくれるが、遠方にすんでいるのでたまに電話するだけだ。ほとんど孤独のようなものだ。
そんな俺がようやく有給休暇でツーリングを楽しめるようになったんだな。
ライトアップされた地底湖でそんな昔のことを思い出していたら体が冷えてきた。そろそろ地上に戻ろう。
受付で借りた薄暗い懐中電灯をつけて順路の表示に従って歩いて行く。所々かがんだり、服が岩肌にこすれたり、受付で借りた土建用ヘルメットを岩にぶつけたりしながら外に出た。
鍾乳洞の出入り口から10mほと離れたところに小さな掘っ立て小屋がある。それが受付だ。30分ぐらい前、ここでおばちゃんに入場料を払ってヘルメットと懐中電灯を借りたんだ。
「ちょっと暗かったよ。電池交換しておいてよ」
って言いたかったのに、おばちゃん寝てる。
カウンターに懐中電灯とヘルメットを置いた。ちょっと振動と音がしたのでおばちゃん起きるかなと思ったけど、起きない。ま、いっか。そのまま寝かせてあげてバイクに戻った。
バイクの上にリュックを置きっぱなしにしていたが、やっぱり誰にも荒らされていない。貴重品は身につけているし、治安は悪くないだろうし、そもそも人が少ないからな。
リュックを背負ってヘルメットをかぶり、グラブをつけてバイクにまたがる。そのまま足でバックしてバイクの向きを道路側に向けてエンジンをかける。
山の中だからな。ちょっと道が湿っている。古い落ち葉もある。スリップに気をつけてゆっくり発進して麓に向かう。
昼飯も食ったし、風景でも楽しみながらのんびり帰ることにしよう。
10分ぐらい走っただろうか、左が沢で右が山肌という細い道をのんびり走っていた。右コーナーはブラインドになっていて先が見えない。そこで車のクラクションが聞こえた。警笛鳴らせの標識に合わせた短いものではなく、鳴らしっぱなしのようだ。
右ゴーナーを曲がりきると少し先に左コーナーが見える。よく見るとそのコーナーに軽トラが止まっている。クラクションはその軽トラが鳴らしているらしい。近づくとおじいさんがハンドルに突っ伏しているのがわかった。どうやら軽トラは駐車しているのではなく、山肌にぶつかって止まっているようだ。
手前にバイクを止めて、グラブとヘルメットを外して軽トラに駆け寄った。エンジンは止まっている。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
呼びかけても返事がない。扉を開けておじいさんの体を少しずらし、とりあえずクラクションを止めた。イグニッションをオフにして、おじいさんの体越しに腕を伸ばしてなんとかサイドブレーキをかけた。
おじいさんは呼吸しているが呼びかけに応じない。脳卒中で事故ったか? 事故った衝撃でくも膜下出血でも起こしたか? とにかくまずい状況だ。
スマホを取り出して119番に通報する。呼び出し音が長い。早く出てくれ...なぜ出ない?
あきらめて110番にかけてみる。こっちも同じだ。
「くそ、携帯電話網のトラブルか!?」
地図アプリで現在地をマークした。
「おじいさん、助けを呼んでくるから頑張ってね!」
聞こえているかどうか解らないが、一声かけてバイクに駆け戻った。
■20分経過 不安
助けを呼べる場所を目指して急いだ。と言ってもそんなに運転がうまいわけじゃない。慣れない山道でおっかなびっくり、気持ちばかり焦る。
どれだけ走っただろうか。1軒の農家があった。道路から農家の玄関先に続く側道に入ると砂利道だった。ハンドルを取られて転けそうになったので、そこにバイクを停めてヘルメットを脱ぎ、農家に向かって走った。
母屋の入り口手前に犬小屋があった。犬が寝ている。番犬に向かない奴だ。
「すみません。誰かいませんか? 交通事故です。助けてください」
玄関先で叫んでも応答がない。縁側に回って開いているサッシから家の奥に向かって呼びかけたがやっぱり返事がない。農作業でもしているかもしれない。
少し離れたところにも建屋がある。そこは動物の小屋だった。
ニワトリが寝ている。10羽ぐらい全部。普通にうずくまってる奴もいるが、横向きに転がってる奴もいる。死んでるのか?
ヤギも寝ていてた。伏せているのではなく横向きに。息はしているようだから死んではいない。
さらに牛まで寝ていた。
何かとんでもないことが起こっている。そういえば昔、テロで毒ガスが撒かれた事件があったよな。イヤなことが脳裏を横切った。
急いで母屋に戻った。玄関を開けてみると廊下に固定電話で見えた。叫びながら勝手に上がり込んだ。
「すみません。緊急事態です。電話借ります!」
ダイヤル式だ! ちょっと驚いたが、急いで119番に通報する。ダイヤルの戻りが遅くてイライラする。
やっぱり通じない。110番も。
受話器を置いて母屋の中を見回すと、キッチンに人が倒れていた。
「大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄って手に触れると暖かい。顔を近づけると呼吸をしているのが解る。この人も脳卒中なのか。
麓に降りるしかないな。地図アプリでこの家の場所も記録した。
急いでバイクに戻ってヘルメットを被ろうとしたときに気がついた。鳥の声が聞こえない。
午前中、何カ所か散策したりしたが、小鳥の声が喧しいほどだったはずだ。
空を見上げる。来るときはどこに行ってもトンビが旋回しているような気がしたが、今は何も飛んでいない。カラスもいない。
やっぱり、何かとんでもないことが起こっている。とにかく麓の街まで降りよう。
スマホのナビアプリで警察署を目的地に設定して出発する。
急いでいるのにコーナーが怖くてスピードが上がらない。やたらと時間が過ぎていく。
やっと民家が増えてきた。人影は見えない。来るときも歩行者はほとんどいなかったからな。それは良いとして、近くの家で電話を借りるべきだろうか。
なんだか怖い。ここは素通りして警察署に向かおう。
街中に入っていくと久しぶりに交通信号があった。青信号なのに前方の車が止まっている。よく見ると横から来た車と衝突している。しかも多重だ。
こんな交通量の少ない土地で多重衝突なんてあるのか!
バイクを降りてけが人を救助しなければ。だが、こんな事態なのに人が集まっていない。警察も消防も来ていない。なんで?
こんな時はけが人の救助をしなければならないはずだ。でも...なんだかとても不安だ。
罪悪感に襲われるものの、その場を離れて警察署に向かうことにした。そうだ、けが人は複数いる。上の農家や軽トラのおじいさんのところにも助けを呼ばなければならない。俺一人じゃ何もできない。とにかく助けを呼ぶんだ。ちょっと言い訳っぽいけど仕方が無いじゃないか。
ようやく警察署に着いた。ほかにも2件交通事故を目撃した。もう、何を通報したら良いのかもよくわからない。
バイクを降りて正面入り口に向かうと、そこには警官が倒れていた。絶望的な気持ちになったが気力を振り絞って署内に入ってみる。やはりそこかしこで警官や市民が倒れていた。机に突っ伏している人はマシな方だ。中には階段から転げ落ちたような人もいる。
「もしもし。聞こえますか?」
俺は一人の男性警官を強く揺さぶってみた。反応がない。
「失礼します」
断ってから頬を軽くビンタしてみた。全く反応がない。きっと他の人も同じだろう。
俺はしばらくその場でボー然としていたが、深呼吸して冷静を取り戻すと近くにあったソファーに腰掛けて考えた。この異常事態は一体どれほどの範囲に及んでいるのだろうか。
スマホを取り出してSNSをチェックしてみた。この1時間ほど、新しい発信が全然ない。
友人に電話をかけてみた。普通なら仕事中のはずだが、出てくれない。念のためメールも送っておく。
ラジオアプリを起動してみた。生放送と思われる番組は全く無音だ。バッファリングを待っているとは思えない。その一方で録音済みと思われる番組は聞くことができた。
スマホから目を離してあたりを見渡すと、無音でテレビがついていた。よく見ると生放送と思われる昼の情報番組だ。だが、様子がおかしい。近づいてみてみると、テーブルに突っ伏した出演者がずっと映っていた。リモコンがどこにあるかわからないので本体側面の操作ボタンでボリュームを上げたが無音だ。チャンネルを切り替えてみた。CMは普通に流れている。再放送ドラマも正常だ。久しぶりに人の声を聞いた気がした。
「ネットもテレビもシステムは生きている。でも人が操作していないんだ」
少なくともここ山梨から東京都心にまで影響が及んでいそうだ。
これはもう俺の手に負える事態じゃない。意識を失っている人はもちろん、怪我をしてすぐに治療が必要そうな人も助けることは諦めよう。ここまで人を助けしようと努力したんだ。罪に問われるようなことはないだろう。
「よし、家に帰ろう」
■1.5時間経過 自宅へ
スマホを取り出してナビアプリを起動する。『自宅に帰る』ボタンを押すとすぐにルート検索してくれる。するとどうだろう、どこもかしこも渋滞マークだらけじゃないか。
「そうか、あっちこっちで事故が起きて車が動かないから、VICSが渋滞と判断してるんだ」
アプリを操作して渋滞を回避する設定にした。すると国道を避けて県道で思いっきり遠回りするルートが出てきた。よく見ると陣馬山の山頂近くを通っている。
「バイクで通れるのか?」
車目線の実写に切り替えて峠の頂上付近を確認すると車が映っている。道路標識もある。これなら帰れそうだ。
警察署内のトイレですっきりして自動販売機で飲み物を仕入れる。準備は万端だ。俺はバイクを発進させた。
ナビアプリの情報を信じると国道は事故だらけのようだ。だが念のため確認してみよう。どうせ迂回路に行くためにも国道を横断しなければならない。
国道近くまで行くと道を塞いでいる車が増えてきた。カーブを曲がりきれなかった車、はみ出して対向車とぶつかっている車、信号待ちの車に突っ込んだ車、免許更新の時にくれる教本の事故例が全部目の前にある。
車の中の人を見ないようにしてなんとかよけて通る。完全に車道が塞がれているときは歩道を走る。このあたりはまだ交通量が少ないところだが、100mも走ると事故がある。避けるのも大変だ。
「この調子だと長いトンネルは避けた方が良いな。やはり国道は避けてナビに従おう」
県道は交通量が少なかった。あちこちで事故が起きていたが、ほとんどがカーブで単独事故だ。簡単に横をすり抜けることができた。ただし、山道には慣れていないのであまりスピードは出せない。特にブラインドコーナーの先は心配なので徐行になる。
ようやく都県境の峠にたどり着いた。見晴らしが良いので休憩しよう。
俺が鍾乳洞の中にいるときに異変が起きたとすると、あれから4時間が経過している。
「東京はどうなっているんだろう?」
峠から東を見るといくつか黒い煙が上がっていた。火災だ。激しく燃えていそうなところもある。
飛行機が落ちたのかもしれない。山があって南側はよく見えないが、羽田の隣は石油コンビナートだ。あんなところに飛行機が落ちたらとんでもない被害が出ているだろうな。
俺の家は多摩ニュータウンだ。多少渋滞していてもここから2時間ぐらいで帰れるはずだ。普段なら。日没には間に合わないか。
多摩地区にもいくつか煙が上がっているが、俺のアパートがある辺りは無事そうだ。気を取り直して部屋に帰ろう。
東京に入ると多少道が良くなる。麓に降りていくと自動車が増えてくるが、まだ単独事故だからすり抜けられる。
住宅が増えてくると多重衝突事故が増えてきた。完全に道が塞がれているところもあるが、ナビアプリの地図を拡大して住宅街の中を迂回することができた。
さらに進むとどこもかしこも事故だらけだが、歩道がしっかりしてくる。ノロノロと歩道を走り、時々停まって人や自転車にどいてもらう。
ガソリンが減ってきたのでセルフスタンドに立ち寄った。電子マネーで決済すると普通に給油できた。やっぱりシステムは生きているんだ。
鉄道の踏切に来ると遮断機が下りてカンカン鳴っている。バイクを降りて線路に近づいて左右を見ると、遠くに電車が止まっていた。もう薄暗いのでよく見えないが、どうやら脱線しているようだ。速度超過でカーブに入ったのかな? 考えたくもない。
遮断棒を押し上げて踏切を通過した。
火災現場の近くも通った。既に燃え尽きた家がある。おそらくここが火元なんだろう。今は近隣住宅に延焼しているところのようだ。今日は風はほとんどない。この一角が燃え尽きて、他の区画にまで燃え移らないことを祈るばかりだ。
自宅アパートに近づいたときにはすっかり暗くなっていた。だがよく知っている街並みだし、街灯が灯っているので不安感は薄い。ちょっとホッとした。
近所のコンビニに行って食料を調達する。名前は知らないが見知った顔の店員さんやお客さんが倒れている。さすがに見過ごせないので姿勢を直してあげた。
消費期限を確認して弁当とカップ麺と飲み物を手にしてセルフレジにいく。
電子マネーで決済したらカウンターの中に入って電子レンジを借用する。このくらいは問題ないだろう。
ふと見るとフライヤーに火が入ったままだ。そりゃそうだよな。普通に営業していて突然気を失ったんだ。火を消す余裕なんてないだろう。俺が消してあげなければ。ここが火事になったら俺の部屋も危ないしな。
アパートはどの部屋も明かりが点いていなかった。ここは独身者ばかりだ。平日の昼間は仕事か学校に行っているはずだ。誰も居なくてもおかしくはない。
安否確認するべきなのかもしれないが、もう疲れた。誰も居ないことにしよう。
部屋に戻って弁当を食い、さっさとシャワーを浴びて寝ることにした。これが夢だったら良いな。
そうだ! 夢ってことにしよう。明日目が覚めたらいつもと同じつまらない日常がやって来るんだ。そういうことにしよう。もう何も考えたくないから。