第1頁―――副題『眠れる旅人、地に至る』
―――私は間違えた。
―――私はそう在れと願われたのだ。
■
気が付けば其処に座っていた。
目をぐるりと動かして辺りを見回せば、なんてことない風景が見えてくる。
霧が立ち込める海の上。
操舵者のいない幾つもの舟。
そして、目の前に掲げられた―――篝火。
水が跳ねる音と衣擦れの音が響く空間には似合わない篝火の男は微笑んで言う。
「やぁ、旅人くん。ご機嫌いかがかな?」
目覚めたばかりの視界に刺し込むように主張するその男に目を細める。
紳士服に身を包み、片手にソーサー、反対の手にティーカップを持つ様はこのような環境、そして男の顔が炎そのものでさえなければなんと似合うことか。
目の前の男を見て、ふと思う。
―――私は、夢を見ている。
それをそうと確信したのはとても些細なことだった。
―――酷く現実味の無い。
無論、目の前の存在ではない―――否、目の前の男だけではないのだ。この場所そのものが夢なのだろう。だが、夢が記憶の情報整理とも言われる現象であるならば、最低限潮の香りぐらいさせればいいいというのに。
大きく、心を落ち着かせるように息をする。
鼻孔を通り抜けて肺に溜まるその空気には潮の香りも、男が持つティーカップの中身の影も存在しない。波の音は苦し紛れのBGMで、カップから立ち昇る湯気はただのエフェクトでしかない。
ここまであからさまで夢を自覚しないのも可笑しなことだろう。
―――記憶の整理、か………。
確信があった。そしてそれは事実であった。
私はこの男を知っている。誰かは知らない。けれど、何者であるのかだけを知っている。曖昧で要領の得ない話しであろうが、知識としてではなく、感覚として、本能的にナニモノであるかを知っていたのだ。
故に問う。
その存在を固定するように。
誰であるかを記録する為に。
「アナタは何者だ?」
「君………それを、わざわざ聞くのかい?」
「これも何かの縁なのだろう。一度会ったのだからアナタの事を覚えておきたい。それが………」
「悪印象であったとしても?」
―――コクリ。
セリフは盗られてしまったが私は男の言葉に頷いた。
そして、男は私を見て首を傾げて逆に問うた。
「それは何故?」
「それは、私が―――旅人だから」
「………っ」
そう答えた私に男は笑みを浮かべた。
「ハハハっ! そうか! そうか………君は旅人だものな………」
「だん………?」
「いや、気にしないでくれ。こちらの話だ」
コホンと咳払いを一つ。仕切り直した男の口角はは未だに釣られている。
けれど、その表情とは裏腹に男の瞳は揺れていた。
―――羨望、だろうか。
そして、眩しいモノを見るように目を細めた男はティーカップをソーサーに置いて目線を落とす。仰向けに隠されたその表情に浮かぶ感情は後悔と自己嫌悪。けれど、それは瞬く間だけのもの。男は泣くように、炎の表情を削ぎ落としていく。
ボロボロと、ボタボタと、落ちた炎は小船に引火する。
炎の勢いは増していく。
身体をくねらせ、身悶える様は男の後悔の象徴だった。
そして、それは男の精神の象徴であり罪。
轟々と燃える炎は正しく苛烈な嘆き。
尽きぬ怨嗟と後悔。
科せられた十字架は今もなお男を焼き続けていた。
「彼女たちを救うと嘯うそぶいて………所詮、私は出来なかったのだ」
―――地獄の炎とでも言おうか。
罪人を苛むように、絡め捕るように男に巻き付き、その勢いを増していく。
足りぬ足りぬと大口を開けた悪魔に身を投げるように、男は自らの嘆きを炎に焼べる。
「彼女たちを照らす炎になるのだとそう言ったのに………」
男は炎に包まれる。
頭部だけではない、炎そのものとなった男と目が合った。
―――あぁ、そうか………。
私はその答えに納得した。
そして、自分の体を這う炎に視線を向ける。
蒼い炎だ。目の前の男のように苛烈な赤ではない。
深い、深い、深海色。
それは男の後悔からくる色なのだろう。燃やし尽くす勢いはなく、ゆっくりと蛇が地を這うように登ってくる。
「君は誰でも無いモノだ。私でもなく、彼女たちでもない」
「私は私だからね」
「君は空っぽだ。中身が抜け落ちた空洞そのものだ」
「そのほうがより多くのものを積んでいけるからね」
―――羨ましいでしょう?
そう男に問えば、返ってきたのは―――、
「ハ、―――ハハハッ!! アハハハっ! あぁ、そうだね。羨ましいよ、全くね………」
狂ったかのような呵々大笑。
轟々と燃え盛る男はより激しく燃えて腹を抱える。
「だから、」
「あは、はぁっ………だから?」
「アナタの事を教えてほしい。アナタのことも連れていくから」
そう言った私に男は苦笑いを浮かべた。
「はぁ………君には敵わないな………」
抱えていた手を降ろし、頭を掻いた男は言う。
「私達を示す言葉は多くある。
賢者、英雄、魔法使い、探究者、先生と様々だが、私はそうだな―――人類の総意体、願いの成れ果て………汝、■であれと願われた者だ。気軽にアラヤとでも呼んでくれ」
そう名乗った男―――アラヤは悲し気に微笑む。
名に込められた意味は分からない。その表情に込められた思いもまた。
けれど、これもまた標なのだろう。
「名をありがとう、アラヤ。私はアナタも抱えて次に行くよ」
「そうかい。ならば、こちらこそというものさ」
もうすぐこの語らいは終わるだろう。
舟に延びた炎は限界を超え、既に自らが宿る主さえも取り込もうとしていた。
舟底には穴が開き、徐々に、徐々に水が入り込んでくる。
暗い水底へと誘われる。
「最後に、一つ………頼み事をしてもいいかい?」
「うん」
「ありがとう。なら―――」
そうして語るのは小さな、けれど人が抱えるにはとても大きな願い。
「分かった。必ず果たすよ」
「うんうん。それなら安心だ」
仰々しく頷いたアラヤは満足気な表情を浮かべ、立ち上がる。
手を最大限に広げ、空を受け止める様な姿でコチラを見て言う。
「さぁ、此処からだ。君の旅はいま始まる」
「どうか、君の旅が苦難に満ち、苦痛の果てに至る過程だったとしても」
「どうか、どうか………君に幸多からんことを」
「故に、この言葉を君に贈ろう。苦痛の先に、希望はあると!―――」
「―――待て、しかして希望せよ!」
「厄災の箱に最後に残るのは光なのだと!」
芝居掛かった口調でそう告げたのを最後に舟は瓦解した。
海に落ちる。肺から空気が追いやられ、意識が遠のいていく。
底に、底にと墜ちていく中で聞こえたのはもういない男の声。
「―――宜しく頼むよ、旅人くん」
その言葉を最後に私の意識は暗転した。