19.幕間~スタンピード
オルヴィスとミレディ。流血表現があるのでご注意下さい
どうして。どうして。どうして。
嘘つき。大丈夫だって、言ったじゃないか。
母親の実家の領地が、魔物の群れに蹂躙されていく。あんなにも豊かだった街は破壊され、見るも無残な様相を呈している。かろうじて住民たちはマティアスの配下が避難させたものの、ターナー侯爵領の物的被害は既に甚大だ。
オルヴィスに組している第2騎士団の騎士たちは多くの魔物たちに後れを取り負傷者を多数出し、第3魔法師団の魔法師たちも、すっかり魔力の底が尽きて陣地で倒れ伏している。冒険者たちは、分が悪いととうに前線から後退済み。人も、魔力も、ポーションも足りない。
確実に討伐を繰り返し、魔物の数は減らせているはずだ。それなのに、次から次へと湧いてくる。
オルヴィスは、目の前の惨状に震えていた。
母親と侯爵が言っていたではないか。魔物たちは、烏合の衆で実際はそんなに強くない。スタンピードなどと第一王子は大げさに煽っているが、大したことはない、と。
それなのに。
「せ、聖女は!! グラマティク公爵令嬢は何をやっているんだ!?」
頼みの綱の聖女ミレディは、医療テントで負傷者に治癒魔法をかけているはずだ。なのに、回復させたはずの騎士たちは、一向に戻ってくる気配がない。
「それが……グラマティク公爵令嬢の治癒が全然役に立っていないと……」
「どういうことだ!?」
「わかりません。ただ、グラマティク公爵令嬢は、癇癪を起して周囲に当たり散らしているそうで、騎士や魔法師たちからも段々と反感が……。殿下、本当に彼女は聖女なのですか?」
側近たちは、現状に顔を曇らせる。肝心の非常時に使えないのでは、聖女なんて御大層な肩書があっても全く意味がない。何が自分に任せろだ。自身満々に笑んでいたくせに、所詮はハリボテ魔力の女か。
「ちっ……くそ……」
苛立ち混じりにオルヴィスは舌を打つ。こんなはずではなかったのに、どいつもこいつも足を引っ張る。敗北感が、オルヴィスの高いプライドを刺激する。
最前線は崩壊しかかっており、このままではジリ貧だ。魔物の猛攻が治まっている今、一度後方に引いて、戦線を立て直すほかない。
仕方なしに、オルヴィスがマントを翻したその時だった。
大樹林から、一つの影が飛び立った。
両翼を悠然と広げたそれは、まるで嘆くかのように大きく咆哮する。びりびりと空気をも震わせる衝撃と、強者が発する圧力に呑まれ、思わず振り返ったオルヴィスは恐怖に身を竦ませた。
――竜。地上で最も強いとされるSランクの魔物。その皮膚は対魔にも対防にも優れ、爪とブレスはありとあらゆるものを破壊する。死の番人とも呼ばれる最強種。皮膚の色から察するに、水竜か。
ただでさえ、竜は有力な冒険者が多数集まってようやく討伐できるレベルなのに。敗戦濃厚なこの状態では、到底勝てる相手ではない。
「おい、う、嘘だろ!? りゅりゅりゅ、竜が出るなんて聞いていないぞ!?」
狼狽で裏返った自分の声で、オルヴィスははっとなった。
ややこぶりで竜種の中でも比較的おとなしいとされる水竜だが、今は凶暴さを隠しもせず、鋭い瞳で人間を睥睨している。水辺付近に生息する竜が、縁もない緑地に出現したのは、まさかアレのせいか。
(竜の卵を領地に持ち込んで利用しようと画策したのは、お祖父様ではないか!!)
もし、そのせいで、今己が矢面に立つ羽目になっているのだとしたら。とんだとばっちりではないか。
どうして、どうしてこんなことに。
王太子にふさわしいオルヴィスには、輝かしい未来が約束されていたはずだったのに!
「ひいいいっ……!! いやだ、いやだ!! こんなところで死にたくない!! 俺は王族だぞ、どけ!! お前らは俺の盾になれ!!」
這う這うの体で、オルヴィスは逃げ出した。側近も、騎士も、魔法師も、味方についてくれた全てを見捨てて。ただただ、この場から逃げたかった。この身にねっとりとまとわりつく寒気と恐怖を、振りほどきたかったのだ。
視線の先で、きらりと銀の光が広がるのが映った。ミレディの使う魔法の煌めき。それは、竜の卵から引き出している代償だ。おい、やめろ。オルヴィスは、声にならない声を上げて手を伸ばした。
その瞬間、捉えたとばかりに竜が瞳孔を見開き、翼を羽ばたかせる。遠吠えに乗せられた古代語は、医療テントの上空に魔法陣を描いていく。
発せられた衝撃波をもろにくらって飛ばされ、あえなく木の幹に叩きつけられたオルヴィスの意識はそこで暗転した。
* * *
どうして。どうして。どうして。
魔法が、思うように作用しない。そんな馬鹿な。ミレディは青褪める。
こんな遠方で、血と汗と泥にまみれた汚らしい場所に、公爵令嬢かつ聖女たるミレディがいやいやでも足を運んでやったというのに。敬いすらもなく、医療テントに押し込まれた。
次から次へと運ばれてくる負傷者に、眉を顰めたくなる。充満する血の匂いで、気分は最悪だ。こんなところからさっさと王都へ戻って、風呂にゆっくり浸かりたい。側妃が言うには、スタンピードなど恐るるに足りないはずだったのに。
だが、何度も範囲治癒魔法をかけているのに、何故か回復が芳しくない。理由がわからなくて、ミレディは狼狽えた。
負傷者は減るどころか、増える一方。やはり大した効果を発揮しないポーションですら底をつき始めている。
そもそも、側妃曰く大したことのない魔物の襲撃でこんなに怪我人を出して、オルヴィスは一体何をやっているのだろう。あまりにも使えない男に、ミレディは内心で舌を売った。同じ王族たる王弟ルクスとは大違いだ。
ミレディは、胸のペンダントをぎゅっと握り込んだ。温かな魔力は、間違いなくこの身を巡っている。
側妃より下賜された魔道具は、無限の魔力を引き出せるという夢のような代物だった。王都では、華々しいミレディにふさわしい光属性の力を、あれほどまでに見せつけたというのに。
掌から放たれる神々しい光は、戦士たちをろくすっぽ癒してくれない。
「聖女殿、早く治してくれ!! 何をやっているんだ、全然効いていない!!」
「おいおい、聖女殿は癒しの力を持っているんじゃなかったのか!? でまかせだったんじゃないか!?」
「痛いぃ……痛い……ぐぅう……」
今、ミレディに浴びせられているのは、不信と失望と怨嗟。耳をつんざくような呻き声と怒声が、ミレディの耳を汚す。
「ひっ……。わ、わたくしだって、ちゃんとやっている! でも、効かないの!! 貴方たちの方こそ、おかしいんじゃないの!? どうして魔法が効かないのよ!」
「あぁ!? 言うに事欠いて、こっちがおかしいとはどういうことだ!! アンタがヘボなんだろう!? 聖女だなんて偉そうにふんぞり返っていたくせに、このザマか!」
「うるさい、うるさい、うるさい!! 誰にものを言っているの、平民風情が!! いや、汚らわしい! 触らないでちょうだい!!」
矜持も何もない。頭に血が上り、癇癪を起したミレディは、ぎゃあぎゃあと喚いて腕を無造作に振り回した。運悪く机に置いてあったポーション瓶や魔力回復剤が次々落ちて割れ、テントの床面を濡らしていく。残りわずか貴重な薬が台無しになり、様々な人からミレディは非難の目で睨まれてしまう。
どうして、どうしてこんなことに。もう嫌!!
あの邪魔な女は、側妃と画策し始末した。スタンピードだって、ミレディの魔法でちょちょいと騎士や魔法師を癒してやれば、聖女様様と貴ばれ慕われる。そんな救国の聖女との愛に目覚めた麗しの王弟殿下との順風満帆な未来が、すぐそこまで来ているはずだったのに。
「な、何よその目は! フン、見ていなさい! 光の女神ジュスティーヌの大いなる慈愛を、こいつらに分け与えなさい!《範囲治癒》、《範囲治癒》!!」
ミレディは卵のネックレスから、引き出せるだけ魔力を引き出して詠唱する。掌から生まれてくる銀色の癒しの光は、最大規模でテントすべてを覆い――。
ぎゃああああああああという禍々しい叫びが、突如空気を震わせた。
「……え?」
ざくりと頬を掠める何か。
次の瞬間、テントの天井に穴が開いた。ドコドコと伝う衝撃と共に降ってくるのは、雹。それも、鋭利な。テントの中は、途端に阿鼻叫喚と化した。
「いやああああああ!! い、いた!! 痛い!! 痛いぃいい」
空から飛来する氷の刃は、ミレディの全身を容赦なく切り裂き殴打する。美しい玉の肌がむごたらしく傷つき、血があちこちから流れていく。何が起こったのかわからない。でも、とにかく早く、早く治癒魔法をかけなければ。
「ひっ……ひぃぃ……」
動揺も露わに詠唱をすべく、震える手で再び卵のペンダントを掴もうとして。
ミレディは気づいた。
――竜が、見ている。
破れたテントの天井の隙間から、蒼い宝石のような瞳孔を険しく開いて、ミレディだけを、見ていた。
何故そんな凶悪な魔物が、間近に迫っているのか。直視しがたい現実に直面し、ミレディの思考は完全に真っ白になった。
竜から魔力を真っ向から浴び、ペンダントヘッドがぴしりと割れる。
「あ……あ……まほ、まほうが……ひっ、ひぃぃい!! いや、いやあああ!! 誰か、誰か、助け……!!」
ぎしぎしと、梁が脆くも軋む。前脚をかけた竜からの圧力に耐えられるわけがなく、医療テントはあっけなく崩壊し。
ミレディの意識は、そこで途切れた。