女王の娘
檻の中にいたはずなのに木々に囲まれた森の中に立っていた。
夜風がことのほか冷たく、ヒヤリと肌から体温を奪っていく。
真っ暗な闇の中なのに辺りの様子が分かるのは、ルーシェの目の前に光り輝く若い美女が空中に浮いているからだ。
煌々と周囲を明るく照らしている。
彼女は広場にある妖精の女王像とよく似ていた。人間とは違い、耳が尖って長かった。
ルーシェと同じドレスを着ているが、癖のある長い黒髪が体全体に絡まってひざ下まで隠している。
神秘的で威厳のある様子で、ルーシェを黙って見下ろしていたが、ゆっくり降りてきて近づいてくる。
緑の瞳の中は小さな星々が爛々と輝いている。
でも、その表情は、悲しみに満ちていた。
苦渋を浮かべながらルーシェの目の前に立ち、両手を顔に近づけてくる。不思議と恐ろしくはなく、逃げようとは全く思わなかった。むしろ、家族のような親しみと懐かしささえ感じていた。
彼女のひんやりとした指がルーシェの頬に触れたとき、視界が真っ白に弾けた。
§
ルーシェの意識は、ある景色を眺めていた。
月のない夜に出会った男女の光景を。
若い男は王子で、女は妖精だった。泉の中から現れた裸の女は、ルーシェと顔立ちがよく似ていた。
王子は彼女を見て、慌てて羽織っていたマントを彼女の肩にかけた。
妖精は無邪気に喜び、王子にお礼を言う。
『何か願い事はない? 服のお礼に一つだけ叶えてあげる』
「あなたに再び会えるだろうか」
王子は頬を染めて彼女を見つめながら、そう答えた。
それから次の月のない夜に二人は出会い、王子はドレスを贈った。
次の新月には靴を贈った。
会うたびに彼女に似合うであろうものを王子は贈り続けた。
そしてついに、美しく着飾った妖精に王子は求婚して、二人は結ばれた。
ところが、ずっと帰ってこない娘を心配して、妖精の女王が二人の前に現れた。
『ごめんなさいお母様。私は妖精の国には帰りません。私はこの人とともに生きていきます』
『母である私を見捨てると言うの?』
娘を奪われた女王の憎悪は、原因となった男に向かう。
『よくも私の大事な娘を奪ったわね。お前だけではなく、お前の血を引くすべての者を呪ってやる! 苦しみながら死ねばいいわ!』
こうして王子の血は呪われた。
『ひどいわ、お母様! 私の大切な人たちを呪うなんて!』
女王の娘は、王子との間に子供を一人産んでいた。
愛する者を死なせたくないと、王子の手を握って、彼女は全ての力を使って呪いを消そうとした。
でも、女王の力は偉大で、消すことは叶わず、抑えることで精いっぱいだった。
『この指輪を大事にしてね』
そう王子に言い残すと、力を使い果たした彼女は光の粒となって消えてしまった。
悲痛な叫びが辺りに響き渡る。
同時にルーシェの周囲は、真っ暗になって何も見えなくなった。
ルーシェが再び瞼を見開くと、先ほどと同じように目の前に妖精の女王がいた。すでにその手は頬には触れていなかった。
彼女は悲しそうにルーシェの顔を見つめていた。
『本当は、あの男の血を引くあなたを助けるつもりはなかった。でも、あなたが、娘によく似たあなたが、お母様と呼んで泣くから、私は自分の罪を認めざるをえなかった』
女王の目から静かに涙が流れる。
『ごめんなさい。私が間違っていた。娘が愛したものを私も愛するべきだった。そうすれば、あの子を失わずに済んだのに』
女王の声は震えていた。うつむいて悲しみをぐっと堪える。でも、再び顔を上げた瞳には迷いがなく、強い意志を宿していた。
『呪いは消すわ。でも、あの子の力が宿った指輪を取り戻して』
ルーシェはその依頼は非常に困難だと思ったが、断ることなんてできなかった。
「分かりました。あの指輪は必ず取り戻します。彼女の命が宿った大切なものですから」
きっと彼女の子孫である自分たちが持っていたほうが彼女も喜ぶだろう。
『分かってくれたのね。ありがとう』
ルーシェの決断を女王はうなずいて聞き入れてくれた。
『それじゃあ、あなたを元の世界に戻すわ。場所はいつも住んでいる場所でいいわよね?』
「はい、お願いします。……でも、その前に女王様を抱き締めてもいいですか?」
このまま悲しみを抱えた女王を放ったままでは心残りになりそうだった。
ルーシェの申し出に女王は目を見開いて驚いていた。
『……私が怖くないの?』
「ええ」
ルーシェが微かに笑みを浮かべて迷いなく答える。
『なら、いいわ』
許しを得たので、正面に立つ女王の背中に両腕を回し、そっと抱き締める。すると、彼女もぎゅっと抱き締め返してくれた。
家族と接するような穏やかな気持ちになってくる。
しばらく抱き合ったままだった。やがて満足して体を離した。
「そういえば、今回助けてくれたからお返しが必要ですよね? 他の妖精たちと同じように服でもいいんですか?」
女王は黙って首を振った。その表情は、優しく慈愛に満ちていた。
『いいえ。たった今、もらったわ。じゃあね、ルルの娘』
視界が急に歪む。
ルルはルーシェの母の名前ではない。きっと女王の娘の名前だろう。
親しみを込められた声だけが、最後にルーシェの耳に残った。