新月の屋敷妖精
「ハイゼン子爵令嬢、この書類にサインしていただきたい。これが受理されれば、私とあなたの婚約は成立する」
淡々とした低い事務的な声が、静かな部屋に響いた。
ここはレセル国の王都にあるサミエル伯爵家のお屋敷。
この重厚なタウンハウスは見上げるくらい高層で、贅沢なほど広い敷地の中に建てられている。
十八歳のルーシェ・ハイゼンは、父とともに訪れて、伯爵令息ウィリアムと対面していた。
ソファに座りながら眺めているのは、円卓に置かれた数枚の書類。婚約に関する契約書だ。主に伯爵家からの支援内容と、破談になったときの賠償金について書かれている。
目を通したあと、彼に視線を向ければ、相手は椅子に深く腰かけながら真剣な顔で返事を待っていた。
二十二才になる彼は端正な顔立ちだ。ところが、目の周りの隈が異様に濃いせいで、顔色が悪く死人のようだ。
こちらを見つめる彼の暗い目から、何かを堪えるような深い苦しみを感じる。
この婚約は彼自身が望んだものではない。不満があるのは当然だ。
「了解しましたわ、サミエル卿」
事前の打ち合わせ通りの内容だったので、用意されていた筆記用具で名前を書いた。
「感謝する。申し訳ないが、私はこのまま王宮へ行き、書類を出してから職場に向かう。お茶を用意させるから、あなたたちはゆっくり過ごしてほしい」
「お忙しいところ、お時間とお気遣い感謝いたします」
父が丁寧に礼を言い、手を差し出す。
「私にとっても必要なことだ。気にしなくていい」
彼は快く握手に応じたあと、あっさりと手を放し、書類を手にする。
立ち上がって足早に部屋から去ろうとして、ドアの前でピタリと足を止める。振り返った顔は、とても気まずそうだった。
「前に私があなたの父君ハイゼン卿に言ったことだが、その……」
「ええ、よく存じ上げております。結婚の条件についてですよね」
先ほどの契約書に書かれていなかった件だ。
「そう、それなんだが……」
「もちろん承知しております。そのために十分な支援をしていただけるお約束ですから」
「ああ、もちろん約束は守るが……」
「愛のない結婚だと理解しております。どうぞご安心ください」
「そうか、申し訳ない」
彼は顔を伏せて心苦しそうに部屋から出て行った。
ルーシェは髪と同じ栗色のまつ毛を伏せて、ため息をそっとつく。
これから彼の正式な婚約者となる。
彼の実家は由緒ある伯爵家。領地を持ち、投資で多くの収益を上げている裕福な貴族だ。その次男である彼は優秀な騎士として王宮で勤めている。彼の優れた容姿と能力だけでも、ルーシェにとっては身に余るような婚約だ。
でも、彼からの求婚には事情があった。ルーシェに対して愛情は全くなく、育む予定もない。
ルーシェに求められているのは、お飾りの妻。
ただ単に双方にとって都合の良いだけの契約だった。
§
ハイゼン子爵家は、何代も前から王家に仕える古い宮廷貴族だ。
ところが、ルーシェの祖父の代から借金を抱えるようになり、その生活は爪に火を灯すような慎ましいどころか貧しい生活ぶりである。
領地を持たないので王都暮らしだが、かつて先祖が住んでいた一等地の場所は維持できなくなり郊外に引っ越している。今いる屋敷でさえ老朽化が進んでも手入れができず廃墟のようだ。
かつては庭だった敷地は、自家栽培の野菜畑になり、ここでとれる芋は貴重な食糧となっている。
「姉ちゃん、もうお代わりないの?」
「姉ちゃんではなく、お姉様よ。残念ながら、もうないわよ」
傷だらけの古いテーブルでルーシェと弟が夕飯をとっている。二人が食べているのは、芋が入ったスープのみ。それも朝に作った残り物だ。
弟のブレントは、まだ十一才の育ち盛りの少年だ。これだけで足りるわけがない。でも、貯蔵庫にある野菜の残りを考えると、十分に与えることはできなかった。
「余り物で良ければ差しあげますわ。あまり食欲がないの」
ルーシェは自分の食べかけのスープの器をブレントに寄せると、弟はそれだけで嬉しそうに姉と同じ緑色の瞳を輝かせて受け取った。
「ありがとう姉ちゃん!」
「もう、お姉様よ」
「気にするなよ。もう俺が貴族になれるわけないんだから」
弟はそう言って、日焼けでそばかすの目立つ顔に苦笑いを浮かべる。
「そんなことないわ。諦めてはいけません」
「でも、学校に行ってないんだから宮廷勤めは無理でしょ」
ブラントは言いながら食事を終えて席を立ち、食卓から去っていく。
その言葉にルーシェは何も返せず、隣の部屋に向かう弟の黒い短髪を見つめることしかできなかった。
先月から王立学校の新学期は始まっていたが、学費だけではなく入学金すら用意できず、弟を通わせることができなかった。ここを卒業しなければ、王宮で勤められず、貴族として地位がなくなるにもかかわらず。
しかも、弟は何も気にしていない風を装っているが、実際は違う。彼は日中小間使いで平民のように働きながら夜はルーシェや父に教わって勉強に励んでいた。でも、入学が無理だと知ったあとはベッドで一人嗚咽を必死に堪えていた。
それを知っているだけに無慈悲な今の状況が悔しくて仕方がなかった。
父は王宮で官吏として働いているが、収入のほとんどは借金の返済でなくなってしまう。それさえ万が一途絶えることになれば、返すあてがなくなり、ルーシェだけではなく、弟も借金のカタで売られる恐れがあった。
だから、最近では金貸しの男は、しきりに金持ちの男との結婚を若いルーシェに勧めてくるようになった。売られるよりはマシだろうと。
それで弟を支援してくれるなら覚悟を決められるが、簡単に頷けない理由があった。
ルーシェは食卓の灯明皿を黙って見つめる。質の悪い油を吸い上げた灯芯からは、燃えるたびにいつもきつい匂いが漂っていた。
『びんぼうって、大変よね!』
陽気な声とともに部屋の空間に現れたのは、手のひらに乗るくらい小さな女の子だ。赤い長髪で、赤いワンピースを着ている。
『指輪、早く見つけられるといいわね』
さらにもう一人、水色のおさげ髪をした女の子がお喋りをしながらポンっと突然出てくる。
『ゆびわがあれば、のろいも大丈夫になるからね~』
のんびりした声を出しながら、茶髪の小さな子どもがふわふわ浮きながら近づいてきた。
三人とも髪と同じ色の服を着ている。ルーシェの手作りだ。
でも、見えるのはルーシェだけ。弟や父は何にも妖精の存在に全く気づいていない。
この子たちは、彼らは昔話や御伽噺に出てくる『妖精』らしい。人間たちにそう呼ばれていると、本人たちが言っていた。見かけは人間と同じだが、耳だけは長く尖っている。
ルーシェが十六才のとき、母が病気で亡くなったあと、一人で家事をしていたら、かまどから赤い女の子が出てきて、井戸からは水色の女の子、茶色の男の子は畑作業していたら地面から出てきた。
ルーシェだけにしか見えないから、初めは自分の頭がおかしくなったのかと思っていた。
ところが、三人がルーシェの知らない本当に起きた出来事を教えてくれたので、他人には見えなくても彼らの存在をやっと信じるようになった。
当初三人は裸だったので、古着から取った端切れでワンピースの服を作ったら、喜んで使ってくれている。それからだ。三人がルーシェのために協力してくれるようになったのは。
この三人は、ルーシェの家が貧しい本当の理由を教えてくれた。
ルーシェたち家族に恐ろしい呪いがかかっていることを。その呪いはずっと不思議な指輪によって抑えられていた。でも、ルーシェの祖父が、その指輪の効果を知らずに手放してしまったため、そこから不幸が始まったようだ。呪いの対象は、ハイゼン家の血を継いでいる者。だからルーシェが嫁いでも、その呪いがついてきてしまうらしい。金持ちと結婚しても問題が解決しないようだ。
ハイゼン家の子どもには、背中に花のような痣が代々あるが、まさかそれが呪いだなんて、思ってもみなかった。
『どんなゆびわなのか、わたしたちもしらない』
『指輪の近くに行けば、分かるんだけど』
『ゆびわは、そう遠くには、いかないらしいよ』
そういうわけで、今夜もルーシェは変装して、この妖精たちに助けられながら指輪探しに奔走する。月に一度、月のない真っ暗な夜に。
これを二年間も続けていた。
最初に骨董屋や指輪を扱うお店を探したが見つからなかった。だから、次に個人の屋敷を探すしかなかった。
「とある侯爵家に古風で年代もののアクセサリーがあると聞いたわ」
指輪の情報提供は、主に母方の従姉からだ。上流階級である伯爵家に嫁いだ彼女は、夜会や社交場でいわく付きの指輪の話を聞いては、たまにルーシェに食べ物を届けてくれるときに教えてくれる。
月のない夜は、底のない沼のように闇が深い。
人は暗黒に潜んでいる何かを恐れて家の中に引きこもる。
万が一出会って異界に連れて行かれないように。
新月の夜は危険だと、そう昔から言い伝えられている。
妖精によって光の道が浮かび上がる中、ルーシェは静まり返った夜の道を駆けていく。
人々が多く集まる広場の噴水中央には、妖精の女王と言われている美しい女性の像が置かれ、その周りには可愛らしい妖精の像が女王を囲むように飾られている。
ルーシェが住むレセル国は、妖精の伝承が多く存在している。でも、妖精なんて想像の産物で、実際には存在しないものだと思っていた。
理由が分からない不思議な出来事を架空の存在のせいにしているのだと。ところが、まさか本当にいてルーシェ自身が関わるなんて予想もしていなかった。
教えてもらった侯爵家の屋敷裏口からこっそり侵入し、妖精たちの案内で進んでいく。彼らは、よその妖精と会話して居場所を教えてもらっていた。
厳重な鍵の解錠や、姿が見えなくなるお呪いも、妖精たちがやってくれる。番犬がいても妖精たちが眠らせてしまって問題なくなる。
妖精たちの力は奇跡のようだが、そんな彼らでもルーシェに掛かっている呪いは解けない。妖精たちだけで屋敷内を探せないかと期待したこともあったが、彼らができるのはルーシェに協力することだけ。
『むりよ。じょおうさまに、そう言われているの』
どうやら妖精たちは女王の命令には絶対逆らえないようだ。
だから、ひたすらルーシェ自身で指輪を探すしかなかった。
宝石が収められている部屋にたどり着いて、妖精たちに確認してもらうが、残念ながら今日も目的の指輪はなかった。手の届く範囲まで来ないと、指輪が探しているものなのか分からないらしい。
いつものように何も取らずに部屋を出た。ところが、暗い廊下を静かに歩いていたら、急に他の部屋から扉を開けて大勢の人間が廊下に飛び出してきた。
ルーシェの逃げ道が、あっという間に彼らに囲まれて無くなった。いきなりピンチで、ルーシェは震えそうになる。すごいのは妖精なだけで、ルーシェはただの貧乏令嬢だからだ。
明かりを持つ彼らの制服姿からして、騎士団の者たちだ。濃い紅色を基調にした詰め襟の上着と、黒い長ズボンである。さらに黒のマントまで着用している。
「ど、どうして私がここに現れるって分かったの?」
尋ねたルーシェの声は、とても震えていた。
侯爵家に現れるなんて、誰にも言っていない。知っているのは、従姉くらいだ。でも、彼女が裏切るわけなかった。
「三ヶ月ぶりか、新月の屋敷妖精。あなたが新月の夜に現れ、さらに装身具を求めて屋敷に忍び込むことまでは分かっている。だから、事前に噂を流して、あなたを誘き寄せたというわけだ。大人しく捕まりたまえ。手荒な真似はしたくない」
ルーシェに返事をしてきたのは、若い男だ。ルーシェはこの人に見覚えがあった。
二年間も貴族や裕福な家に何度も侵入していると、うっかり屋敷の人間に気づかれることもある。妖精の協力もあって、なんとか逃走に成功しているうちに『新月の屋敷妖精』と二つ名まで付けられるようになった。
その理由の一つが恰好だ。今のルーシェはこの世のものとは思えない変わったドレスを着ている。虹色に輝くような美しい光沢の生地は、体にフィットしたデザイン。スカートの丈は膝下くらいで短く動きやすく、ふわふわと透き通ったフレアな生地を何枚も重ね、花びらのように華やかな印象だ。それは広場にある妖精の女王の像と同じ格好だった。
さらに顔がバレないように、目以外を隠すような黒い布のマスクをしている。栗色の長い髪も目立たないように三つ編みをして邪魔にならないように一つにまとめていた。
普段は古びて繕いばかりのワンピースを着ているルーシェが、こんなお洒落な格好をしていればバレることもない。
これも妖精たちの不思議な力のおかげだが、新月だけしか使えない特別なものらしい。
そんな風にルーシェが貴族たちの間で有名になったせいで、都市の治安を守る騎士団の面子に傷をつけてしまったようだ。
彼らはルーシェを捕まえようと必死に追いかけてくるようになった。
「屋敷妖精ちゃん! 今日も可愛いっスね!」
「震えて可哀そうに。副団長、もっと優しく声掛けしないとダメっすよ!」
ところが、騎士の全員が、やる気があるわけではなかった。なぜなら、ルーシェはただ無断で屋敷に侵入するだけで、まだ何も盗んでいないからだ。鉢合わせても眠らせているだけで誰かを害しているわけでもない。
だから、こうして場違いなほど楽しそうに声を掛けてくる騎士もいた。
「お前たち、ふざけたことを言うな。真面目にやれ」
特にルーシェを捕獲しようと熱心な副団長とは何度も顔を合わせている。彼の端正な顔をよく覚えていた。
「そうは言っても副団長。もっと素直になった方がイイっすよ。屋敷妖精ちゃんに会えなくて落ち込んでいたじゃないですか!」
「そうそう、普段はあんなに激しく言っているじゃないですか、屋敷妖精ちゃん大好」
「お前たち、いい加減にしろ」
騎士団員同士、よくこうした冗談や軽口を交わしているので、ルーシェからは仲が良く見えた。
この部下を呆れながら叱りつけている副団長は、現場の指揮をいつも任されている。騎士団が現れたときに彼が不在だったことはない。
銀色の艶のある短髪と、鷹のように鋭く吊り目がちな碧眼。
仕事中なので、眉間に皺のある厳つい表情しか見たことがないが、彼の整った顔立ちはいつも目の保養だった。
(副団長は、騎士団の中で一番恐い人だけど、顔は好みなのよね)
本日12時に二回目更新を予定しております。