レモンの匂いがするきみと
もう何日もこの繰り返しだ。
毎日毎日仕事をして家に帰ったら、知らない間に寝ている。そしてまた朝になり、会社に行く。
気づいたら浦島太郎みたいに白髪の生えた老人になっているのではないかと本気で思う。でも人生ってそんなものなのかもしれない。
浦島太郎は玉手箱を開けたとき、どんな気持ちだったんだろうか。亀を恨んだだろうか。竜宮城に行ったことを後悔しただろうか。それとも竜宮城で過ごした時間はそれほどの年月を一瞬だと感じるくらい楽しかったんだろうか。彼にとっては充実した、後悔のない素晴らしい人生だったんだろうか。
玄関に散らばった靴の中からつま先のはげた革靴を片方づつ見つけて履き、家を出た。
どんよりとした天気だった。空は厚い雲で覆われている。風が吹くたび頬がぴりぴり痛くなる。冬に戻ってしまったような寒さだった。冷たい空気がコートの中に入り込まないよう、僕はマフラーに顔を埋めた。
今日も頑張ろう。
駅前の横断歩道で赤信号を見ながら、自分自身に言い聞かせるように頭の中で呟いた。
大きく息を吸い込む。胸の奥がきゅーっとなってもうこれ以上吸い込めないくらいまで。子供の時からの癖でそうすると気持ちが落ち着く。息を吐いたほうがリラックスできるとよく聞くけれど僕は逆だ。ちゃんと息を吸ったほうが詰まっている何かに気づくことができる気がする。冷たい空気が鼻をツンとさしてからぼくの肺に入り込んできて、胸の辺りがひんやりした。
あれ。なんだろう。それと同時にぼくはかすかにレモンのような匂いを感じた。それとなく辺りを見回すと、道路脇に女の人がしゃがみ込んでいた。献花だろうか、彼女の見つめる先には花束がひとつ置かれている。花はみずみずしく咲いていて、どんよりとした天気には似合わなかった。その人はぼくの視線に気付いたようでこちらを向いた。一瞬目が合ったけれど、ドキッとして思わず目を逸らしてしまった。ちょうど信号が変わり、ぼくは早足で横断歩道を渡った。
こんな早朝でも駅のホームにはそれなりに人がいる。眠たそうにしているサラリーマン、必死に英単語帳をめくっている高校生。いろんな人がいるんだなと思うと、どこかほっとする。僕が高校生の時に見ていた景色と、あの高校生が見ている景色はきっと違うんだろうなあ。でもあの頃見えていた景色は今の僕には見えない。あの高校生に見えている景色も僕には見えない。無い物ねだりなんだよなと思った。
「…の。あの。あの!」
急に後ろから大きな声がした。振り返ると、女の人が、ハアハアと息を切らして立っていた。さっき横断歩道で見かけた人だった。
「やっぱり、きみにはわたしのことが見えるんだね!どうして?どうして見えるの?今まで誰も見えなかったのに。どうして君には見えるの?」
「ちょ、ちょっと待って。どういうことですか?」
「ほら!わたしの声も君に届いているし、君の声もわたしに届いてる。奇跡が起こったんだ!」
彼女が何を言っているのか理解できなかった。
周りにいる人たちがちらちらとこちらを見てくる。でも彼女はそんなことお構い無しという風に話し続ける。
「電気が流れたみたいに体がビビッとして、そしたら君と目が合って!ほら!花だって掴めるようになったんだよ!」
そう言って嬉しそうに僕に右手を突き出した。けれどその手には何もなく、ただ指だけが強く折り畳まれていた。
「あれ、さっきまで確かにあったのにな。」
そう言って彼女はあたりをキョロキョロ見回したけれど、それらしきものは落ちていなかった。
「あとで探さないと。」
彼女が口を尖らせて言った。
「でも、絶対きみなの。きみ、ほんとに何も分からないの?」
「いや、そもそも言ってることがよくわからないんだけど…。見える見えるって見えることの何がそんなにすごいって言うんですか。幽霊でもあるまいし。」
「え?」
彼女がキョトンとした顔で僕のことをじっと見ていたけれど、とたんにぶはっと吹き出して笑った。
「きみ、ほんとになんなのさ。おもしろいんだけど。」
彼女の笑い声はホーム全体に響き渡るくらいで、通りかかる人みんなが変なものを見るような目で僕らのことを見ていた。でもそんなの見えていないみたいに、彼女は変わらずに笑い続ける。何が面白いのかよく分からないけれど、顔をくしゃくしゃにして耳を真っ赤にしてあまりにも楽しそうに笑うから、僕はそれがなんだかおかしかった。でも僕が笑うのは何か違う気がしたから唇をグッと噛んで堪えた。唇はひんやり冷たかったけれど、ついさっきまで感じていた寒さはもう無くなっていた。
『3番線、電車が参ります。線路から離れてお待ちください。』
「あーあ、おかしかった。きみ、あの電車に乗るんでしょ?今日はもうバイバイだね。でもまた絶対会おうね。わたしまた明日会いにくるから。というか待ってるから。絶対だからね。」
「は、はい。」
「わたし、ユウ。きみの名前は?」
「向井草太。」
「そうた。うん、きみ、そうたっぽい。」
そう言ってまた笑ったあと
「そうた、いってらっしゃい。」と言って左手をパーにして揺らした。
不思議な気持ちだった。そんなことないはずなのに今ここを動いてはいけないような、離れてはいけないようなそんな気がした。電車が発車するベルがなったけれど、僕は止まったままだった。するとそんな僕を見かねてか、彼女は僕の背中をポンと押した。僕はハッとして急いで電車に駆け込んだ。彼女のことが気になって、ちょうどしまったドアから彼女のいた方を見た。けれど、そこにはもう彼女の姿はなかった。
あれから2週間が過ぎた。彼女はまた明日といったけれど、次の日、あの横断歩道にも駅のホームにも彼女の姿はなかった。正直、そんな気はしていた。強がりとかそういう類のものではなく、あれきりになってしまうような気がしていた。2週間も経てばだんだん記憶も薄れていく。彼女が言ったこと、僕が話したとこ、見えていた景色、まわりの音、匂い。どのくらい寒い日だったか。彼女の顔も次に会った時にはもうわからないような気もする。それで良いような気もする。でもひとつだけ確かなのはあの日は良い1日だったということだ。仕事がいつもより捗って、定時で上がることができたし、社食のメニューは一番好きなエビフライ定食だった。帰り道、散り始めていたけれど今年初めての桜を見ることができた。
『ブー、ブー、ブー』
ケータイが鳴り、見ると同期の川田からだった。5年前には8人いた同期はもう僕と川田の2人だけだ。
「もしもし、向井?今何してる?」
「今?まだ会社だけど。」
「お前また残業かよ。相変わらずだな。」
「うるせえな。したくてしてるわけじゃないんだからな。」
「まあそうだよな。ごめんごめん。」
「それでなに?どうしたの?」
「これから飲みいかね?明日休みだし。お前に話したいことあるんだよ。仕事終わってからでいいからさ。」
「急だな。どこで?」
「お前乗り換え渋谷だろ?渋谷でどう?俺店決めとくからさ。お願い、お願い。な、いいだろ?」
「わかったよ。いくよ。」
「まじ!よかったあ、じゃあ待ってるからな、店の場所あとで送るわ。」
川田は僕とは正反対の性格だ。明るくて、お調子者で、要領が良くて、人付き合いがうまい。学生だったら絶対に仲良くならないタイプ。でも部署が同じということもあって同期がまだ全員いる時からなんとなく川田とは馬が合った。時々飲みに行っては会社の愚痴を言い合ったりしていたけれど、去年部署が別々になってからは社内で会うことも減り、飲みにいくことも少なくなった。だから久しぶりの誘いだった。
「そろそろ切り上げるか。」
社内には僕以外もう誰もいなくなっていた。
電気を消して、鍵をかけて帰る日が続いていた。