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死者達

作者: 黒森牧夫

 全てが余りにも明白であるが為に全てがぼやけ切って何も見えなくなってしまっている即融の領域から脱出して明晰なまどろみの境界領域の中へと身を移すと、私に於て生きられた時間に於ける無数の過去に於て〈私〉であったところの無数の死者達が、地の底から響いて来る様な、唸りとも悲鳴ともつかない読経にも呟きにも聞こえる音を力の限りに旋回させているのが耳に届いて来た。焦点をあちこちに移動させてみると、曾て〈私〉や〈我々〉であったものどもの残骸が見渡す限り一面に(うずたか)く積み重なり、厚い層を成して広がっているのが判った。私は喉の奥から込み上げて来る悲鳴と戦慄を必死になって押さえ付け乍ら、それらの声のひとつひとつを聴き分け、その微細な屈折や反射の数々を読み取ろうと試みたが、目紛しい変化の数々は安易で準備の十分ではない解読を退け、どうやら時間軸を重層的に分極化させ、ずらし込んでやらなければ無理な様だった。手間の掛かる作業自体は苦ではなかったものの、次々と明らかになる忘却の深淵の彼方より甦り飛来したものどもを目の当たりにして、私は、不穏な当惑と、天空が通常の運行を止めてしまい、地平線に融合しようとゆっくりと不気味に翼を下ろして来たかの様な圧迫感に暫し苛まれた。単なる困惑とは完全に異なる、目眩き精妙で根源的な想起により、私は湧き上がって来る混乱を避け切れず暫く御し難ねていたが、やがてまるで春先の大風の様に乱暴で夏の海の波の様に際限の無い夥しい旋律の中に、何かの鼓動を思わせる一定のリズムが、空ろな軽さを持った音を伴って、ずっと休まず響いて来ているのが聞こえて来た。一旦は先取りされ乍らもその後次々と廃棄され、意識の前景から背景へと深く深く沈み込んで行ってしまった幾多の可能性の残照が、夕暮れ時の湿原の野鳥を思わせる鋭い鳴き声を立て、最後に何か言い残したことがあったかの様に短く一声付け足すと、それに遅れる様にして、〈私〉が深化の道程を辿り始める以前の、曖昧模糊として境界のはっきりしない〈我々〉のさざ波がサッと押し寄せて来て、その中から次々と幾つもの顔が目紛しく現れては消え、心騒がされる振動で以て赤と黒の膿み爛れた風景をちくちくと小刻みに切り刻んだ。それからまた取り零された時間の谺達がドップラー効果によって奇怪な姿に歪み乍ら通り過ぎると、その後を、先程の傷口から立て続けに起こった小規模な爆発達が、血の泡の様に粘っこく互いに癒着し合い乍ら、突然自閉して消え失せた。するとまるでその反動の様に、不意に例の鼓動の様な音が、単調に、無機質的に、威嚇的な高まりを見せた。と、不吉な予感がして視線を転じると、遙か上空で、大地がまるで燃え易い紙切れの様に燃え尽きては消え燃え尽きては消えを繰り返しており、その背後では空がくしゃくしゃに丸まってボロ布の様に転がっていて、そしてそれらの更に上空で、冷え切った強権的な太陽が、ぎらぎらとした、しかし冴えざえとした光芒を冷厳と周囲に放っていた。私の肉体の皮膚と肉はその対極の遙か下方で、ガンガンとまるで鍛冶屋が金床を叩き付ける様に荒々しい叫びを上げ、憤怒と呪詛の限りを辺り一帯に喚き散らしていたが、上空で死滅しつつあった諸々の広がりは、不思議なことにそれに全く関心を見せず、只〈私〉の暗い急流を見下ろし乍ら、何時までも同じ動きを繰り返していた。

 突如、巨大な影の塊が津波と成って〈私〉に襲い掛かり、縺れ合い、もんどり打って激しく転げ回ったが、禍々しい瘴気の靄がその動きの縁から次々と立ち昇り、その揺らめく霞の中で幾つもの年の夢が夢見られては立ち所に消えて行ったが、それに煽られてその周囲から〈私〉の反照やその反照、或いはそれらを透かして彼方に見られたものの無数の声が澎湃と沸き上がって来た。深々と降り積もる十二月の雪の中から忽然と、醜怪で魁偉な姿が浮かび上がって来て、チョコレートの様にどろどろに溶け出した。七月の街灯の光の陰から影の様なぼんやりとした鏡像が幾つも焙り出て来ては忙し気に位置を変えた。小さな握り拳の陰影で出来た瘤から手当り次第にあらゆるものを引っ繰り返してしまう概念のスプーンが芽を出して荒れ狂った。幾つもの恐怖が混じり合った、浅いが広い海の底から、黄色い目を持った巨大な口が這い上がり、穢らわしい腐汁を垂れ落として伸び上がった。星で一杯の夜空の向こうに甘く麗しい死の溯及点が見え、〈私〉の居た世界へと手を伸ばして来た。血の様に赤い夕焼けと眩しい位に白い曇り空とが重なり合った。引越し当日とその少し前の日から〈私〉のものではない幾つかの眼差しが滲み出て来て、切れぎれに苦悶の汗を滴らせた。〈私〉の実質を形作っていた実に様々なものどもが秩序も統制もお構い無しに複雑怪奇に絡まり合い、言葉では到底表し尽くせない微妙な色彩を描いて、あちこちに飛沫を散らした。大きな流れの中に小さな切り口が生まれ、くるくると螺旋を描き乍ら長く尾を引いたが、何時しかそれは重層的に反響し合って何十倍何百倍にまで膨れ上がり、数多の世界を震撼させて行き、洩れ出した悲響は長くその場に留まった。譫妄状態の譫言めいた断片的な言葉らしきものの閃きが数枚、その後を追う様にしてひらひらと散って行った。私は視界を移動させて流れとの相対速度を縮め、より(しなや)かな行動の自由を手にすると、束になった情報の隙間を縫う様にして、深淵へと繋がる思念集合体の季節と風味を観察して回った。首を絞められる時の鶏の断末魔にも似た苦し気なゴースト音がカタカタと何か軽いものが揺れる様な音と共に流れの中に時折現れてはこちらを睨め付けて行ったが、どうやらそれは〈私〉へと統合され損なった諸経路が互いに惹き付け合って融合し、一体化したものの様だった。流れの表面には時として青い稲妻が閃くこともあったが、速度が近い所為か奇妙にもゆっくりに見えた。私自身すっかり忘れ切ってしまっていて追跡も叶わない様な意味と感触が流れの中で大群を成して犇めき合い、凄絶な速度で絶えず変容を続けているのが透けて見えた。そしてその隙間を埋める様にして、〈私〉以前のどろどろの何かが、緩やかに窮屈そうに蠢いていた。突然、何か酷く悍ましく、且つ鋭いガラス片の様な危うさを持った大量の廃棄思念が辺り一面に打ち撒けられて流れから外れ、猛烈な勢いで消滅の波に取り込まれ、深淵の彼方へと消え去って行った。そしてそれによってまた空隙に誘い込まれる様にして、未完成の儘に打ち捨てられた関係性の束がどっと流れ込み、水子、と言うよりは蛭子染みた歪な胎生を育み始め、かと思うと忽ちの内に滅び去った。数多くの他者達の顔や感触が鬼火の様に揺らめき、盛んに瞬いては過ぎ去り、あちこちで業火の渦を巻いた。最早何もののか判りもせぬ大地を割るが如き凄絶な絶叫が沸き上がり、変則的に支流を生み出しては虚空へと溶け込んで行った。それから暫く流れが緩やかになり、死者達の譫言めいた呟きも一時下火になったが、それが仮染めのものでしかないことを証するかの様に、呪言めいた眠らざる鼓動が何時までも居残り続けた。私は耳を塞ぎたくなるのを堪え乍ら、この際限の無い悪い冗談の様な暗い光景に見入り続け、取り残されたものどもの聞こえるか聞こえないかの微かな悲鳴に更に耳を澄ませて行った………。

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