2.国王陛下に告ぐ
「たのもう」
今からそいつを、これからそいつを殴りに行こうかと決意を込め、低い声で入室の許可を問えば、戸惑った声が返った。
「お、おう?」
ドアノブを掴んだ私の隣でラスが額に手を当てていた。
「さっきの間にどうしてこうなった……。方向転換の角度が急すぎる」
うん。自分でも驚いている。
さっきまでの乙女モードはどこへ行ったのかと。
いやいや、あんなん私じゃない。
手の届かない星を欲しがって泣いて去るなんて私じゃない。
八つ当たりなのはわかってる。
だけどユーティスも悪い。ということで、私の左拳を犠牲に捧げることにした。
ドアを、ッバアン、と開け放ち、つかつかと踏み入ると、中には訝しげに眉を顰めたノールトと、「どうした?」と戸惑っているユーティスの顔があった。
私はユーティスの面前までつかつかと歩み寄ると、そのままの勢いからぐっと一歩を踏み込み、握り締めた右手を思い切りユーティスの顔面めがけて突き出した。
「ユーティスのバカーーーッッッ!!」
「なんでだ!」
面前に迫った拳をユーティスは難なく、はしっと掴む。包帯でぐるぐる巻きの私の右手を。
しまった、うっかり利き手を差し出してしまった。
「リリア、急にどうしたと――」
こっちだった。
えい。
どふぅっ、と私の左拳がユーティスのどてっ腹に埋まる。
ふう、掴んだ拳を使えずに言葉を失くさずに済んだ。
見る見るうちにユーティスが沈んで行った。
「う……ぐっは……っ」
思ったよりも深く入ってしまったようだった。
「ちょ……、陛下あぁぁぁっ!」
ものすごい形相でノールトがユーティスに駆け寄り、脈を確認した。生きてるらしい。
「あなたは一体何をしてるんですか?! あなたは陛下を助けるために王宮に来たんではなかったんですか」
「知ってたんなら、何でこれまで私に冷ややかな目線を送ってたのよ、ノールト! お互いにユーティスのために働く者同士仲良くできたはずじゃない!」
「勿論あなたが憎いからですよ。そしてあなたが何にもわかっていないからです。それより何故今陛下を殴ったんです?! 本当にあなたは心底から理解できない!」
「ユーティスがいつでもどこでも、寝室に帰ってまでも、『婚約者を溺愛する賢王』の仮面を脱がないまんま私に接するからよ! 楽しそうに髪を梳かれたり、目を開けたら微笑んで寝起きを待たれてたりしたら、そりゃ私の頭も切り替えられなくなるし、ずっと好きだったって嫌でも気付いちゃうってのよバカーーーァァァ! 実りのない色気を無駄に振りまいてんじゃないわよこのアホーーー!」
なんで人の目がある時だけにしとかないのか。
いや人の目がある時の方がよほどドライだったような気もする。
仮面を脱いだりかぶったりするのなんか大得意だったのにバグってんじゃないわよ!
まだ言い足りてないけど、思い切り叫んではあはあと肩で息をつく私に、ノールトがぶちりと血管が切れた音を部屋に響かせた。
ノールトのものすごい形相がさらにものすごい形相になった。
「だからあなたは嫌なんですよ。陛下がこれまで、どれだけあなたなんかのために奔走してきたか知りもしないで。今だって、こんなに国王として相応しい陛下が、あなたのためにこの国を――」
言葉の途中で、ドアの外から「あの……!」とアイリーンの遠慮深げな、しかし強い声が割って入った。
「たぶん、リリア様は勘違いなさってるのではありませんか? 先程様子がおかしかったものですから、気になって後を追いかけてしまいましたが。おそらくそこから正さないと話は平行線になるように思います」
公爵令嬢であるアイリーンが現れたせいか、ノールトは言葉を止めた。しかしその双眸はまだ私を憎々し気に睨んでいる。
「リリア様。リリア様は存外愚鈍ですのね?」
思わぬ方向から飛んで来た槍に、私は目を剥いた。
口元に手を当て、悪気のなさそうに放たれたアイリーンの言葉に、一同はしんとなる。
その一瞬後、部屋の隅にいた隻眼のカゲが「ふっ」とたまりかねたように吹き出した。
表向きの護衛だから執務室にいるのは当たり前なのだが、あまりに気配がなく今まで気が付かなかった。それどころではないのもあったが。
くくくくっ、と楽し気に笑うカゲは捨て置いたまま、アイリーンは再び私に言葉を向けた。
「リリア様はそこまでわかっていらっしゃるのに、何故肝心なところで斜め上の方向に行ってしまわれるのです?」
第三者の私でもこんなに簡単にわかることですのに。
そう小さく呟いてアイリーンは私に小首を傾げて見せた。
「リリア様は私が王妃になるのだと勘違いなさったのではありませんか?」
「勘違い……?」
「ええ。勘違いです。なるわけありません。ルーラン伯爵邸に面会にいらした陛下を一目見たとき、十数年に及ぶ王妃教育なんてぶん投げて全面降伏いたしましたわよ。あんな恐ろしいお顔、この世で見たこともありません。そんな顔をさせるリリア様を差し置いて私が王妃になることなどありません。例え国のためであっても、尻尾を巻いて逃げさせていただきます。だって、陛下がそれを許すはずがありませんもの」
それに、とアイリーンは少し笑って続けた。
「初めてリリア様にお会いしたあの時。私はリリア様には既に全面降伏しておりますのよ。あなたは私を犯人ではないと言った。それは感情に任せた甘い『信じる』などという判断ではありませんでした。リリア様は正しく見抜いたのです。状況と、私の本質と、経緯から」
そこには天と地ほどの差があります。
そう言って、戸惑うばかりの私に、アイリーンは言葉を継いだ。
「そしてあのままでは私が疑われ、リリア様が帰らぬ人となれば断首は免れないだろうことも瞬時に悟っていたからこそ、必死にあの一言を残してくれたのです。最後の一言になりかねない中でした。それなのに、私を救うためにたった一言を絞り出された。それだけで私があなたに心酔するには十分でした」
思わぬ言葉ではあったけれど、最初に『愚鈍ですのね』と大きくけなされたわけで、この後まだ落とされるのかもしれないと私は注意深くアイリーンの言葉の続きを聞いた。
「王妃教育などあとからいくらでも身につけることができます。でもそうしたものはリリア様ご自身の資質です。私にはそんなリリア様を差し置いて王妃の座に収まることなどできませんわ。勿論、そんな申し出もハナからないのですけれども」
アイリーンはくくくっ、と楽しそうに――ちょっと悪役みたいに――笑って、ちらりと目線を横に向けた。
その先には、沈んでいたはずのユーティスがノールトに肩を支えられ、立ち上がっていた。




